8月4日(日)
 暑い日が続きすぎてグロッキーである。
 何もする気がなくなり、締め切りが決まっているもの以外、盆が過ぎるまで仕事をしなかった。
 川柳も、とっくの昔にできていたのだが、エッセイ部分の筆が進まなかった。
 お詫び申し上げる。
 さて、今週は60年代のレコードについて書く。レコードらしきものを買ったのは、小学4年のときである。「おそ松くん」のソノシートで、黒柳徹子がチビ太の声を演じていた。お年玉で買ったが、たしか280円だった。
ソノシートを知る人も消え どのシート
8月5日(月)
 レコードを初めて買ったのは、中学一年のときだ。当時のラジオ番組で流行っていた「帰って来たヨッパライ」である。その曲は、京都の大学生が結成したフォーク・クルセイダースというバンドで、解散記念につくった自費出版のLP「ハレンチ」に入っていた。
 回転を早回しにして独特の声にした曲は、200万枚以上を売り上げた。自費出版だったので、「アングラ」と呼ばれた。「ハレンチ」のジャケットは、黄緑にオレンジと黄色という蛍光色イメージの配色で、当時人気を呼んでいたピーター・マックスというアーティストの影響を受けたサイケデリックなもの。B面は記憶から消えていたので、ネットで調べると「ソーラン節」だった。
 「帰って来たヨッパライ」につけた英語タイトルは「I only live twice」。「007は二度死ぬ」の原題「You only live twice」のパロディである。最後に流れるお経は、ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」だが、版権はどうなっていたのだろう? ビートルズと同じ、東芝キャピタルだったので、許されたのだろうか?
ヤァヤァヤァとハード・デイズ・ナイトの日々が過ぎ
8月6日(火)
 フォーク・クルセイダースは、加藤和彦、北山修、端田宣彦の3人組だ。加藤は龍谷大学、北山は府立医科大学、端田は同志社大学で学んだ。加藤と北山は、1年限りの活動と割り切っていて、端田は別のグループから応援にかけつけた。北山は、バンド解散後も大学に残り、卒業後は精神科医となった。加藤はミュージシャンになり、サディスティック・ミカ・バンドで世界に羽ばたき、多くの楽曲を残して自殺した。端田は、解散後にシューベルツ、クライマックス、エンドレスとバンドをつくり、現在はソロで歌っている。
 「解散コンサート」のアルバムで、シューベルツの紹介があるが、このバンド名は音楽家のそれではなく、「靴のひも」の意味だ。
花嫁は夜汽車に乗って駆け落ちか
8月7日(水)
 シューベルトのメンバーには杉田二郎がいた。漫才コンビ・ノンスタイルの井上に似た顔で、すこぶる美声の持ち主。森下二郎とともにジローズを結成した。声がよすぎて、森下二郎とバランスが取れていないのが難点だが、「戦争を知らない子供たち」がヒットしている。ネットで調べると、森下二郎の本名は悦伸で、ジローズのバンド名にするため、むりやり二郎に改名したという。
 この曲は、高校時代の予選会用につくったバンドで歌った。私はベースを弾くことができたので、他のバンドからも声がかかり、手伝ったら、そちらの方が一位となってしまった。当時の校長は「戦争を知らない子供たち」を初めて聞いたようだ。教え子たちが「戦争を知らない世代」であることに、改めて気づかされ、寸評で平和について語っていた。
戦争を知らない子らに夏が来る
8月8日(木)

 「アングラ」とは、アンダーグラウンド、地下のことである。西欧では、1960年代に既存の文化に反発してカウンター・カルチャーとして過激で前衛的な活動が行われていた。ところが、日本では、唐十郎が主宰する状況劇場や寺山修司の天井桟敷といった劇場がアングラ文化を発展させた。しかし、日本ではアングラというとサブ・カルチャーやファッションといった意味合いが強くなっている。
 「帰って来たヨッパライ」で到来したアングラソング・ブームは、回転数を変えれば、それがアングラソングであると消費者を勘違いさせた。それが「ケメ子の歌」である。巷間で広まっていた歌だったそうで、ザ・ダーツとザ・ジャイアンツの競作になった。これを採譜したのは、「黄色いサクランボ」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」などのヒットメーカー浜口庫之介の手による。
 この曲を作曲した人物はのちにわかったものの、他人がつくった「森のくまさん」を自分のものだと主張したこともあり、本来の作者から怒りをかわれてもいる。

アングラに陽の目が当たりアングリー
8月9日(金)
 中学生の頃は、ラジオがよく聞かれていた。夜になると電波がよく通るようになるのか、関東や関西のラジオ局がよく聞えるようになる。東京の番組では「オール・ナイト・ニッポン」「パック・イン・ミュージック」。関西では「ヤング・タウン」「ヤング・リクエスト」などの番組があった。
 私がよく聞いたのが毎日放送の「ヤング・タウン」。司会は、週前半が斎藤努、週後半に桂三枝(現文枝)が担当していた。思いが高じて、千里にあった毎日放送のスタジオ収録に出かけたこともある。番組で当てられ、上がってしまってとんでもない声を出したこともある。高校入学前に、落語のオーディションに出かけ落選し、帰りに万博を訪ねたが、人が一杯でメジャーな館は入れなかった。
 「ヤンタン今月の歌」というコーナーで、ウッディ・ウーの「今はもう誰も」という曲が流れ、お気に入りとなった。アリスがカバーして大ヒットした曲だが、ウッディ・ウーでレコード発売もしている。緑色のカバーだったように思う。
勉強を深夜ラジオのついでにし
8月10日(土)

 アングラ・ソングをレコードにしていたのが「URC」、アングラ・レコード・クラブである。当初は会員制だったそうだが、今治のレコード屋でも入手できた。佐藤栄作を揶揄した「栄ちゃんのバラード」が入ったフォーク・ゲリラの実況版。音質は、とても悪かった。
 岡林信康の「私を断罪せよ」というアルバムを聴いていたら、姉が部屋に入ってきて、「組合に興味があるの?」と聞いてきたこともある。これはURCではないが、遠藤賢司の「猫が眠っている」を聞きながら線香を炊いていたら、これも馬鹿にされた。
 URCレコードの最大の功績は、はっぴいえんどのアルバムを出したことである。はっぴいえんどは、YMOで知られる細野晴臣、「夢で逢えたら」や小林旭「熱き心に」の大瀧詠一、ギタリストの鈴木茂、のちに人気作詞家になる松本隆らのバンド。日本語を優れたロックにした初めてのグループである。雑誌「ガロ」で「赤色エレジー」が人気を博していた林静一がイラストを描き、ファンの間で「ゆでめん」と呼ばれるデビュー作、「空色のくれよん」「風をあつめて」などの名曲が入ったアルバム「風街ろまん」は、今聞いても心が動かされる。

若き日の希望と恥が同居する
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