当社は松山市の末広町にある。松山市駅に近い便利な場所だが、実はなかなか歴史がある町で、子規ゆかりの正宗寺や、松山藩主蒲生忠知の菩提寺・興聖寺といった史跡がある。
興聖寺は、12月14日に「義士祭」が行われるお寺としても知られる。赤穂浪士四十七士の木村岡右衛門と大高源五の遺髪を祀る墓や句碑があり、毎年討ち入りの日には法要をはじめ、末広町商店連盟による義士行列や、討ち入りソバの販売などが行われる。
私は近代以降の歴史には興味があるのだが、近世以前はどうも古過ぎて関心が向かない。赤穂浪士のことも、討ち入り後、幕府の沙汰があるまで松山藩など数藩に預けられていたくらいは知っていたが、それ以上知りたいとも思わず、義士祭も町内のおじさんたちが張り切る年末の風物詩にしか思っていなかった。しかし末広町を拠点にしていながら、町の歴史も知らないでは面目ない。私は『新松山紀行』という松山の歴史・文化の本を作るに際し、この機会に赤穂浪士について調べ、本に載せようと決めた。
幸い松山には、「赤穂御預人始末」という古文書が残され、それを現代語訳したものもあったので、天下を騒然とさせたこの事件で、松山藩がどれほど狼狽したか手に取るようにわかった。そして、なぜ切腹の介錯をした藩士が、松山のお寺に義士の遺髪を埋葬したか理解することができた。
ところで、本に掲載するにあたり写真はどうしようかと考えたとき、ふとイギリス人、フェリックス・ベアトが幕末に撮った写真を思い出した。10人の浪士が預けられたのは、三田にあった松山藩の江戸中屋敷(現在の港区三田・イタリア大使館)である。ベアトが撮った「三田綱坂」の写真には、島原藩松平家下屋敷の長屋と5人の侍がぼんやりと写ってはいるものの、松山藩の屋敷は鬱蒼とした木立の向こうでよくわからない。だが私はその写真を見たとき、雪の舞い散る暗い三田綱坂を、283名もの藩の使者とともに上っていく浪士の姿を垣間見たような気がし、芝居やドラマの忠臣蔵ではない、リアルな討ち入り事件を感じることができた。写真の力とはすごいものである。(2012.12.14掲載) |