かつて南予一帯に広がっていた段々畑を今も見られるのは、宇和島市の遊子(ゆす)だけである。私は取材でこの地を訪れたときその壮観さに圧倒され、段々畑の一番上から宇和海に浮かぶ無数の養殖筏と、集落を見守るように立つお墓を見て、なんともいえぬ感慨を持った。
段々畑の形容にいつも使われるのは「耕して天に至る」ということばである。確かに、一段一段石を積み上げた先人の行為は敬服に値するが、正直「天に至る、とはなんと大仰な」という思いがないではなかった。
あるとき本を読んでいると、この後に「これ貧なり、これ勤なり」と続くとあった。つまり、山を削って築いた田は貧しさの象徴であり、人々の勤勉の賜物だというのである。そして、これは中国人が作った漢詩の一部だという。そう知って私はようやく腑に落ち、いかにも白髪三千丈などと誇張する中国人らしい表現だと思った。
その中国人とは清国の政治家・李鴻章(りこうしょう)だというのだが、異なる表現もあり、「耕して天に至る。以(もっ)てその貧なるを知る。しかるに我が国土広大なるも、国力において劣れり」とある。日清戦争講和の全権大使として来日した李鴻章は、瀬戸内海の島々の段々畑を見て日本の貧困に驚く一方、自国の国力を嘆いたというのである。
司馬遼太郎は「街道をゆく九」で、また少し違った書き方をしている。日清の関係が険悪になりつつあった明治中期、日本の経済力を見極めたいと訪れた李鴻章が汽船で神戸に向かっていたとき、岩だらけの小島が島肌を剥き、段丘が島の天辺(てっぺん)にまで達しているのを見て、この小さな島国の楽屋を見たような感じがし、安堵の思いを込めて「耕シテ天ニ至ル。貧ナルカナ」とつぶやいたというのだ。
また作家の宮脇俊三は李鴻章ではなく孫文(そんぶん)のことばとして引用していたとの指摘もある。どれが正しいのか私には調べる気力も手段もないが、恐らくいろいろな人がいろいろな場面でこのことばを使い、後に続くことばも違ったのであろう。
段々畑ではないが、棚田の世界一は中国雲南省の「紅河(こうが)ハニ棚田」で、標高1800メートルという、まさに天空に至るものだそうである。(2012.12.28掲載) |