記録しておかないと消えてしまうことは、世の中にたくさんある。時代は移り変わるものだから、消えるのは仕方ないが、過程を知らず結果だけしか見なければ、それがどんなに有り難く尊いものか、若い人や未来の人にはわからない。私たちの先輩がこのように頑張ってくれたからこそ、豊かな社会が築かれたのだということを知ってもらうため、絶対本にしておかねばと思ったのが、大野ヶ原の開拓の話だった。
戦後まもなく、全国各地に食糧増産などを目的とした開拓地ができ、愛媛県でも60カ所を超えたが、なかでも離農者が相次ぐほど厳しかったのが大野ヶ原だった。標高が1000メートルを超えるカルスト高原は寒冷地のうえ、土壌も酸性で農作に適さない。カヤとクマザサが繁る原野に鍬一本で挑み、試行錯誤の後、この地に適しているのは酪農ではないかと、手探りのようにして牛を飼い始めたのが今日の基盤となった。
当初私は、開拓一世から聞き取りをして本を書こうと、以前取材をした酪農家の黒河高茂さんに手紙を出したところ、「大野ヶ原の歴史を書くのは私の義務だと思い、数年前から原稿を書いています」というお返事が届いた。事情に疎い者が聞き書きをするより、当事者が書いた方がはるかにいいと思った私は編集役に回り、本づくりのお手伝いすることにした。
黒河さんの原稿を読み、人間はなんとたくましいのだろうと私は圧倒された。しかし黒河さんはちっとも偉ぶらず、「今ならユンボでやればあっという間にできるものを、何日も血豆をつくりながら開墾したんですから、バカみたいな話です」と笑った。また苦労を共にしてきた妻のアヤ子さんをねぎらう気持ちだったのか、「わしに遠慮せず、この機会に自分の思いを好きなだけ書いたらいい」と励ました。その原稿には、子どもがケガや病気をしたとき、病院の遠かったことがどれほど母として悲しかったか綴られており、胸を打った。
本ができたとき、黒河さんは「これで責任を果たせた」と本当に喜んでくださった。この開拓の記録『大野ヶ原に生きる』は、第27回愛媛出版文化賞を受賞した。(2013.1.4掲載) |