私は時々、手紙の返事をもらえないことがある。それも誰かが亡くなり、家族に対してお悔やみを述べたり、その人の思い出を書いたりした、自分で言うのも変だが、かなり心の込もった手紙である。それが何日たっても返事が来ないので、よほど打ちひしがれ、悲しみから立ち直れないのだろうと思うことにしたが、あるときふと、私がいろいろ書き過ぎたせいで、その返事が重荷になったのではないかと思った。私は職業上文を書くのに慣れているが、書き慣れない人にしたら便箋一枚書くのも大変な苦労に違いない。そう思うと、なんとなく同情の気持ちも湧いた。
文章が書ける、書けないというのは、何に起因するのだろうか。学校で作文というのを書かされてきたから、上手下手を抜きにすれば、文章は誰にでも書ける。その人が本好きかどうかも大きな要因で、語彙(ごい)が多ければ文は容易に書ける。もうひとつは「書きたい」「書かねば」という意志とでもいおうか、自分が体験したこと、自分が知ったことを他人にも知ってほしいという思いが強ければ、何をおいても「書く」という行為につながる。
世の中で「書くのが気にならない、得意だ」という人と、「書けない、苦手だ」という人の割合がどうなのか見当も付かないが、前者は圧倒的に少なそうだ。本当は書けるのに、こんなことを書いたら人に笑われ恥をかく、というためらいで書かない場合も多い。体面を重んじる日本人らしい理由である。書きたくないものを無理に書けとは言わないが、書きたいことがある人は、まず自分のためだけに書いてみたらどうだろう。
何年か前、わが家で14歳の愛犬レオが死んだとき、私はささやかに執り行ったレオの葬儀のようすと思い出を書き、「レオが死んだ日」という小さな手作り冊子を作って、そのころ東京にいた娘と息子に送った。子どものころからの遊び相手だった愛犬の死に、娘は丸一日号泣したと言ってきたが、息子はその小さな冊子の文と写真を見て、「自分がそこにいるような不思議な感覚だった」と言ってきた。私たち家族は、家族の一員だったレオの死を、こうして分かち合うことができた。
(2013.1.25掲載) |