大河ドラマ「八重の桜」を見ていたら、八重の兄・覚馬(かくま)が群衆に交じって黒船を見物しているシーンがあった。その群衆のなかに、なにやら紙にせっせと描いている男がいる。私はそれを見て、『宇和島をゆく』という本を作ったとき、宇和島伊達文化保存会が所蔵するペリー来航時の絵を何点か掲載させてもらったことを思い出し、当時はこうして大勢の人が驚嘆しながら黒船をスケッチしたんだろうなと思った。
伊達家に伝わる絵は群衆に交じって描かれたものではなく、中井旅之助という宇和島藩士がしかるべき人物とともにアメリカ軍艦の要人と接し、軍艦や軍艦内部、蒸気車など、17点の絵や図面を描いたものである。私は、これらのなかからどれを掲載するか決めるため、デジタル画像にしたものを見せていただいたが、旅之助は絵心のある藩士ということで抜擢されたのか、帆船の絵などは実に美しい。
ペリー来航は大事件だったからその記録は多く、当時の情報伝達手段であった写本(手書きで写した本)も数多いというが、ペリー提督の肖像画などは写しているうちに変化したのか、あるいは日本を脅かす悪者として故意に悪人面にしたのか、似ても似つかぬ顔の絵もある。
旅之助が描いた人物画のひとつは軍服姿で、ヘルリ、アータムスと名前が書かれている。横浜開港資料館には「ペリーとアダムスの絵」というのがあるから、ペルリとも呼ばれたペリーをヘルリと書いたのだろう。そしてもう一枚、名前は書かれていないが、面長で目のぎょろりとした男の絵がある。ちょっと変わった帽子を被っていて、年もそう若くなさそうなので、もしかするとペリーかもしれないが、これらの絵を発見した愛媛大学の内田九州男(くすお)教授もこれをペリーとは断定していない。中井旅之助とはどのような地位にあった人物か、藩主・伊達宗城に命じられ、何を目的に情報収集したのかを調べなければ、絵だけでは判断できないということなのだろう。
これらの絵は1854年に描かれ、2004年に発見されるまでの150年間、たたまれて袋に入れられ、古文書の中に眠っていた。宇和島は実に面白いところである。(2013.2.22掲載) |