前回、「物事は思いよう」だと書いて、ふと40年前にも同じことを書いたのを思い出した。私が独身だったころ、夕刊か何かのコラム欄に投稿し、それが掲載されたことがあった。そのときも確か「思いよう」という題だったのと思うのだが、落語に、タダのものならなんでももらうケチな男がいて、別の男が、腹が張って仕方がないからと大きなおならをくれてやると、男はそれを手でつかみ、畑でパッと手を開き、「ただの風よりましだろう」というのがあったので、それを思いようの例えとして書いた。
当時は、まだ個人情報保護法などなかったのどかな時代だったので、新聞社に住所を聞いたのだろう。後日ファンレターとおぼしきハガキが男性の名で来た。それに「面白うありました」と書いてあったので、父は「こういう書き方をするのはお爺さんじゃな」などと、娘に変な虫が付かないかチェックしていたが、それとは別に「掲載された記事を金属プレートにして残しませんか」という営業のハガキが来た。母は娘の原稿が初めて新聞に載った嬉しさのあまり、「造ってもろたらどう」などと盛んに勧めたが、おならの原稿など残したくなかった私は当然ながら造らなかった。今となっては、そんなものを残し、子どもたちに笑われなくてよかったとつくづく思う。
その金属プレートのビジネスがどうなったのか知らないが、人間というのはちょっと虚栄心をくすぐられるだけで、簡単に乗ってしまうもので、それは形を変えて今もある。掲載ビジネスとでもいおうか、私の知り合いや当社から出版した人のなかで、数人、それにひっかかった。
ある日、「とてもすばらしい原稿を書かれてますね。うちの雑誌にも書いてもらえませんか」と連絡してきたので、気をよくしてそこへ原稿を送ると、後日、法外な掲載料を請求されたというのである。俳句の場合もあるし、絵の場合もある。雑誌発行にもお金がかかるので、応分の負担をするのは仕方ないにしても、先に掲載料を言わないのは騙しとしか言いようがない。
思いようなどと楽天的なことを書きながら矛盾するが、自信過剰はつけ込まれることが多いので、ご用心。(2013.4.19掲載) |