私が駆け出しのライターだったころ、よく田舎のおじいさんにしてやられた。たとえば取材のアポを取るとき、「松山からだと、大体そこまでどのくらいで行けますか」と尋ねたら、「高速道路ができたから、1時間で来れますわい」というので、それを真に受けて出発したところ、1・5倍くらい時間がかかり、他の取材の人を待たせてしまって恐縮したことがあった。おじいさんに悪気はなく、山の中のくねくねした道を走っていたころと比べ、なんと速く、近くなったことよと感嘆した感覚から、四捨五入ではなく切り捨てた時間を言って自慢したのだろう。
三間(みま)町(宇和島市)の米農家にお話を聞いたときも、おじいさんが「ここらの土は粘土質で米作りに向いている、三間の米は日本一じゃ」と言うのでその通り書いたら、原稿をチェックしていた人から、「日本一などというなんの根拠もないことばは使えない」と言われ、確かにそうだと頭を掻いた。そういう経験を積むうちに、私の中では、「田舎のおじいさん」イコール「自慢しい」という図式ができてしまい、民宿を営むおじいさんから「うちは3年先まで予約が埋まっている」などと言われても、「はいはい」と受け流す可愛くないライターになってしまった。
だがこうした経験で、私には視野を広げて見るという癖が付いた。全国的に見た場合、これはどの位置にあるのか、どことどう関連しているのかといったふうに、客観的に比較して見るようになったのである。
地方でまちづくりの運動をしている人にありがちだが、郷土愛の強い分、わがまちを良く言う傾向がある。地域文化を形にして残す出版の仕事をしていて思うのは、卑下する必要はないが、度が過ぎると地域エゴや愛国主義のミニ版にもつながりかねないということで、その兼ね合いは実に難しい。
思えば、田舎のおじいさんが自慢しいなのは、今日のような溢れんばかりの情報と無縁だっただけでなく、父祖伝来の地に止(とど)まり続けるには、自らを奮い立たせるプライドが必要だったということなのだろう。若いときは偏狭(へんきょう)だと感じたおじいさんの自慢を、最近微笑(ほほえ)ましく思うのは、私も年を取ったということなのかもしれない。(2013.5.3掲載) |