当社には、「ペンディング(保留)」と書いたファイルボックスがあり、その中には何年も入ったままになっている原稿や企画書がある。出版を計画しながら、いろいろな事情で出すことができなかったものである。
その事情とは、出版時機、内容、費用の問題、著者の時間的制約などで、保留とは言いつつ、未来永劫日の目を見ることがない「幻の出版物」である。
そのひとつに忘れられない原稿がある。新聞社の社会部で長く事件記者を務めたOBの原稿で、愛媛で起きたさまざまな事件について書いたものだったが、著者が急死され、出版計画が頓挫(とんざ)してしまった。
当社は文化に関する出版物を主にしているため、殺人、詐欺、誘拐、汚職といったものについて書いた原稿を最初に読んだときは、愛媛のダークな部分を目の前に突きつけられた気がしていささか暗い気持ちになった。犯罪は推理小説などで日常化し、東野圭吾らミステリー作家によって日々消費されている感すらあるが、その原稿には事実しか持ち得ない、ある種の重みがあった。
しかしその原稿は、著者自身が取材した事件だけでなく、警察資料によって書いた昭和初期の事件などもあったため、もうひとつの愛媛の顔ともいうべき社会の裏面史となっていた。また犯罪の地域性、時代との関連から見た考察は、広い意味での文化といえた。
いま、その著者はなぜこの本を出したかったのかと考えてみると、むろん自分の人生の大半を占めた仕事に対するプライドもあっただろうが、おそらくは被害者の無念や、社会正義とは何かということを書き残したかったに違いない。書かなければ残らない、記録したことしか記憶されない、というのはあるノンフィクション作家のことばだが、ある出来事についてどんなに深く知っている人がいても、その人物が亡くなればすべて消えてしまい、後世の人は何も知り得ない。
出版は、人の営みや時代を記録する大切なものであるにもかかわらず、一般の人にはあまり縁がないものと見なされてきた。私たちは、これ以上ペンディングが増えないよう、もっと出版への理解を深めるべきなのかもしれない。
(2013.5.31掲載) |