普通、翻訳といえば外国語を日本語にすることを言うが、私は以前から、「日本語をほかの日本語に翻訳する」必要を実感してきた。難しいことを難しいまま書いた本は読まれない。特に若い人には、そういうものを敬遠する傾向が強いから、読んでもらおうと思えば、易しい言葉に翻訳しなければならない。
最近、それを強く感じたのが『舟を編む』という本を勧められて読んだときである。本の帯にマンガが入っているのを見たとき「ン?」と思い、少し読んで「やっぱり!」と予感が的中したことに気付いた。なにしろ主人公の名前からして、真面目をもじった馬締(まじめ)光也。戯画化された個性の強い登場人物たちが出てくる、恋ありトラブルありという、よくあるストーリーだった。
ただ、主人公が出版社の辞書を編纂(へんさん)する部署にいる、という設定が珍しいといえば珍しくて、華やかな出版のイメージからは程遠い、地味で、根気を要する辞書づくりの舞台裏がわかりやすく描かれていた。この本が「本屋大賞」に選ばれるほど評判になった理由も、そうした一般人が知り得ない世界を見せてくれたこと、言葉の海へ小舟で漕ぎ出していくような、膨大な言葉の収集と解釈に情熱を傾ける人たちの存在がわかったためだろう。
辞書作りの舞台裏を書いた本はこの世に何冊もある。現に著者の三浦しをんさんは、それらを参考にこの本を書いている。なのに、これが読まれるのは、若者向けに翻訳しているからである。
そうは言っても、年配者なら「そんなマンガみたいな本、書けるか!」と思うだろう。第一、書きたくても書けない。言葉は時代と共に変わっていくものだから、新しい言語感覚がつかめない老人には無理なのだ。
自分のことで恐縮だが、私もこれまで、愛媛の文化や歴史のことを知ってもらおうと、易しく書くことに努めてきた。読みやすいと褒められれば悪い気はしないが、はっきり言ってその作業はとてつもなくしんどくて、最近年のせいか、「もういいや」と思うようになった。本当に読みたければ、ひとはどんな手段を使ってでも読む。そのために辞書がある。
(2013.6.21掲載) |