本を何冊か書くと、講演依頼というのが来る。たいていは本の中身について話してほしいというもので、「それなら読んでくれればいいのにな」と思ったりするのだが、「本に書いてない取材の裏話などをしてもらうと、読者が喜ぶ」と言われると、これも一種の読者サービスかな、と引き受けることになる。
そういうことで、下手な話をしに何度かあちこちへ行ったのだが、一番遠くまで行ったのは東京だった。『漱石と松山』という本を書いたとき、愛媛県が早稲田大学で寄付講座というのを開くから、行って話してきてほしいと依頼してきたのである。これは学生ではなく、文化に関心を持つ一般人を対象にしたもので、観光や愛媛のファン作りを目的に、何人かの講師を派遣したものだった。
漱石と松山との関係というと、たいていの人は『坊っちゃん』くらいしか思いつかないようだが、私は地元の人間の視点で、子規をはじめとする松山人との交流を中心に書いたため、それが目新しかったのか、たくさんの人が読んでくれ、重版もした。
早稲田大学の講演で、「東京は違うなあ」とびっくりしたのは、司会者に紹介されて私が演台に立った途端、満杯の会場から何人かの女性が中腰になり、フラッシュ付きのカメラで写真を撮ったことだった。おもむろに会場を見渡すと、品の良い紳士然とした人も座っていて、「もしかすると早稲田の教授か?」と内心びびったりしたのだが、ここまで来れば話すしかない。なんとか1時間半の講演を終えたが、それまで〝講演の聴衆とは取材の裏話を聴きに来る人〟というイメージしかなかった私は、いろんな人がいるんだなと認識を新たにし、苦手な講演にさらにプレッシャーを感じることとなった。
私のつまらない話でも、聴いてくれた人が松山に来てくれるきっかけになれば多少役に立ったことになるが、このところ漱石と縁(ゆかり)のあるものが次々に消えていく。土砂崩れで愚陀仏庵(ぐだぶつあん)が全壊した時も悲しかったが、先日、子規と散策した宝厳寺(ほうごんじ)も焼失してしまった。本を作るとき、漱石の痕跡を探して写真を撮って回ったことを思い出し、なんともいえない喪失感を味わった。
(2013.8.31掲載) |