本に、「追悼集」とか「遺稿集」というのがある。追悼集は亡くなった人を偲んで遺族や友人が書いた本、遺稿集は亡くなった本人が書き残した原稿を本にしたものである。
自分のことで恐縮だが、私は父が亡くなったとき追悼集を作りたいと思い、お葬式の後、親戚のみんなに「思い出を書いてね」と頼んだのだが、言い出しっぺの私自身が、その後に襲われた喪失感で、なかなか父のことを書けなかった。父の思い出といってもいろいろあり、いいことばかり書いても父らしくないという思いもあって、沙汰止みになってしまったのである。
父は地方公務員で、西条や新居浜で勤務した後、愛媛県庁で長く仕事をし、定年を迎えた。大正12年生まれで、男ばかり7人兄弟の長男。弟たちには一種冒し難い雰囲気で睨みを利かせていたというが、私たち子どもにはやさしかった。
父の仕事のことはあまり聞かなかったが、一度だけ、どこかの農協に査察に行き、出納担当者の引き出しを開けさせると、中に何十本もの印鑑が転がっていたので「これは、なんぞ!」と叱り飛ばしたという話を聞いた。当時は通帳と印鑑で入出金をしていたので、ハンコの持ち歩きを面倒がった農家の人たちが農協に預けっぱなしにしていたらしい。
何かにつけて厳しい父ではあったが、説教めいたことや教訓めいたことは言わず、ちょっと斜(しゃ)に構えたところがあったので、不思議と孫たちから人気があった。父が亡くなったとき、葬儀場で孫たちが棺(ひつぎ)を囲み、「じいちゃーん」と声を上げておいおい泣くので、後から叔母に「義兄(にい)さんは孫らから慕われとったんじゃなあ。今ごろお葬式で泣く人は、ほとんどおらんよ。義兄さんは幸せよ」と言われた。
父は脳梗塞で倒れ、県立中央病院へ救急搬送された後、しばらく入院した。言葉を発することができなくなった父は、動く方の手を握ると、返事の代わりにキュッキュッと握り返してきた。当時仙台の学校にいた息子がバイクで戻ってきたときも、手を握らせるとキュッキュッと握り返し、息子は拳(こぶし)で涙を拭った。
この文を書いたことで、父は追悼集を作らなかったことを許してくれるだろうか。(2013.9.13掲載) |