”THE MAN AND THE MACHINE”   

                                            THE AL BAKER'S XR'S ONLY HISTORY


アルベーカーは1964年、初期のHONDA 「XL」シリーズのシャーシ、サスペンションの改良を
プライベーターながら、極めて早期から取り組んでいた。当時、アルはロングビーチホンダのビル・ベルの
もとに勤めながら、4ストロークのオフロード車の魅力にとり憑かれていたのである。
フレームはC&Jの特注品を使って、アル自身がデザインしたサスペンションやボア、ストロークのアップ
を施し、プレイバイクに過ぎなかったこれらのXLモデルを、戦闘力を備えたコンペティティブなレーサーへと
変貌させていった。

やがて各地で行われるデザートレースでアルはこの自作「XL-THUMPER」を駆ってコンスタントに表彰台の
中央に登り始めた。そしてアルは、4ストークエンジンの特徴である、幅広いパワーバンドと信頼性が
宿敵の2ストロークマシン達を容易に打ち負かせることを確信するに至った。
74年と75年に開催されたSCORE BAJA1000マイルレースでアルは2年連続の総合優勝(4輪を含めて)
いう快挙を成し遂げ、彼のこの二つの確信が正しいことを周囲に痛烈に知らしめる事が出来たのである。
そしてそれまでの「2ストロークが最速で常勝」という概念をアルは完全に覆した。
「ハスクバーナ」はもはや無敵のマシンではなくなってしまったのである。彼のめざましい活躍に注目したホンダは、
まもなくアルと直接タイアップし、アルは「MUGEN」と銘打ったレーシングパーツの輸入を開始し始めた。
当時、彼が心血を注ぎ込んだ当時の4バルブエンジン、XLは徹底したチューニングを受け
凄まじいパワーを絞り出していたが、王座を確固たるものにするには限界に達していた。
時代は4ストロークのニューエンジンを要求していた。アルはホンダジャパンの開発スタッフの重要な一員
として、その研究と開発のため、それまで以上に濃密な時間を過ごすことになった。
この有名な「プロジェクトX」計画RFVCという、オフロードマシンにとっては究極とも言えるニューエンジンを
生み出し、すべての「XR」のラインナップに搭載されることになった。
アルと当時のデザートレースのエースライダーあった、ボブバレンタインは数多くのレースを勝ち進んでいった。
ボブはメキシコで開催された「サンフェリーぺ250マイル」で優勝を飾り、アルは3位でフィニッシュした。
ボブはその後、BAJA500のプレラン中に不運な事故に見舞われ、チームはレースの断念を余儀なくされたが
11月に行われたBAJA1000で「アイアンマン」ことジャックジョンソンと組み、XRのプロトタイプ
(のちのXR500)で、17時間と言う驚異的なタイムで総合優勝を収めた。
ジャックはサンフェリーぺ250でも一位を獲得した。
これらのめざましい活躍によってチームホンダとアルは自分達が真の勝者であることを確信した。
RFVCエンジン搭載のXR350とXR500の販売が開始される傍ら、アルは引き続き、
後に爆発的な大ヒットとなる、名車”XR250
(ME06)”の開発にも取り組んだ。

まもなくXR500は600ccへとその排気量を上げ、誰もが知る通り、XRは多くのダートライダーのハートを
捕らえ、世界のいたるところでトレンドとなっていったのである。
1986年、XRの生みの親とも言えるアルは、トッププロや一般のXRオーナーの多くがクオリティの高い
パフォーマンスパーツを強く求めている事を知るに至った。「XR'S ONLY」というネーミングの会社設立
のアイデアはここから生まれた。86年から87年にかけてアルと「XR'S ONLY」はハイペースで
レーシングパーツの開発とデリバリーを開始。それらはワークスマシンとストックとの性能差を補うに
充分な内容を誇っていた。
「XR'S ONLY」の名声は一躍世界中を駆け巡った。イギリス、日本、そしてオーストラリアにも代理店が誕生した。
1987年の「XR'S ONLY」のハイライトとしては、アルと第二ライダーランディーノーマン組が
BAJA1000で総合2位、続けてクリスハインズ、スコットハーデン,ダニーラポルテ組が3位という
申し分のない戦績を残した。
また「XR'S ONLY]がセットアップしたXR350でドリュースミスはポーランドで行われたI.S.D.E.で
ゴールドメダルを獲得した。トップライダー達はアルが開発したレーシングパーツによって
数々の勝利を手中にしたのである。
1988年、アルは再びランディーノーマンと組んでBAJA1000で総合3位を獲得した。このとき
「BAJA COMMANDER」と言う名のフルレース仕様のキットバイクを完成させ、フランス、イタリア、
日本のチームと20チームを越えるアメリカチームのピットサポートも開始した。
ペルーのロベルトベルモンテはこのキットレーサーでインカスラリーで上位に食い込み、ゲオフバラッドは
オーストラリアンサファリでトップファイブの成績を収めた。

他方では過酷なレースで名高い、パリダカールラリーでもXR'S ONLYが製作した数台のキットレーサーが
ダカールのフィニッシュラインを通過した。
国内のレースでは、SCOTT SUMMERSがナショナルのヘアースクランブルシリーズで表彰台に上がり
デュワイトラダーとスコットドラフトも好成績を収めた。

1989年、西ドイツで開催されたI,S,D,Eで、XR'S ONLYで仕上げられた3台のバハコマンダー、XR280
(ME06 XR250)が再び350クラスに出場した。
3台のXRは、すべてメダルとともにフィニッシュラインに帰ってきた。ドリュースミスはゴールドメダルを獲得し、
しかも出場したアメリカンの中でもトップクラスの成績を収めた。デュワイトラダーもゴールドメダル、スコットドラフは
シルバーメダルを獲得した。
レース活動に多くの労力を傾注する傍ら、XR'S ONLYは拡大の一途を遂げていった。
一方、アルの優れた開発能力に注目し、4ストロークの市場参入を図る為、USA SUZUKIの強い要望で、
新世代のマシン、「DR」シリーズの開発にも着手することになった。
そしてこの年、XR'S ONLYはHONDA、YAMAHA、KAWASAKI、SUZUKI4社のディーラーシップを
獲得する為、アリゾナのフラッグスタッフへ向け大掛かりな会社移転を行った。
しかし、これによって享受されるビジネス上の利益には魅力的な要素が充分にあったものの、
現実的には拡大したマーケットへのパーツ供給や法的な事柄などの様々な問題が発生し、
4ヵ月後には再びカリフォルニアへのリターンを余儀なくされた。



フラッグスタックからの500マイルに及ぶ再度の移転は計画的に敢行されたが、
ニューパーツの開発と「XR'S ONLY NEWS」の配布や89年度のカタログ製作に支障をきたしてしまった。
そしてこの移動の最中に、アルは自家用機の墜落事故によって、頭部に致命的な重症を負った。
1989年8月25日にアルを襲ったこの悲劇は、それから2年半に及ぶ間、遂に一度も彼の意識を
蘇らすことはなかった。
1992年2月10日。アルは彼の両親と多くの友人達に看取られながら他界した。

私達は彼の死を痛切に悼むと共に、彼がオフロードの4ストロークマシン開発に果たした重要な役割と
その偉大な業績を忘れることはないだろう。
彼、アルベーカーの存在を抜きにして「XRの誕生」とその進化の歴史を語ることはできない。
彼はホンダのスタッフと一丸となって、4ストロークマシンのオフロードライディングの新しい地平を切り開き、
私達にその素晴らしい世界を示してくれた。
こんなエピソードがある。
当時、アルの才能に惚れ込んだホンダ幹部がアルに、開発正社員としての地位を強力にオファーしたことがあった。
しかし、この魅力ある申し出に彼はどうしても応じる事が出来なかった。
R&Dの組織の一員となるには、あまりにも彼は自由奔放で、デザートライディングの世界をより深く愛し、
またヘスペリアの大地を生涯の地と思っていたからである。
彼、アルベーカーはまさに自然児そのもののような男だったのである。


.

         2005 BAJA 500 WINNING MACHINE XR'S ONLY XR650