球状ノーライト
香川県観音寺市の洋上に「円上島」という小島がある。ここは島全体が球状ノーライトと呼ばれる珍しい岩体からなっていて国の天然記念物に指定されている。ノーライト(Norite)とは斑糲岩の一種で、白色の曹灰長石と暗緑色〜紫色の紫蘇輝石が同心円状に発達しながら、あたかも年輪のような球顆を呈するもので深成岩の接触変成により形成されたと考えられている(「香川県の文化財」昭和46年 参照)。斑糲岩は花崗岩より風化に強いために島状の岩塊として残ったらしいが、海岸にキノコのように群生する球顆の産状はまさに形状しがたいほどの奇観をなすという。球顆の大きなモノでは直径8cmもあるそうで、見ようによっては菊や梅の花にも見えるので「菊花石」とか「梅花石」とも呼ばれて鑑賞石の世界では珍重されている。ただし、双方とも日本で有名な産地は別にあって石の種類もまったく異なるので誤解が生じないようにしなければならない。これも鑑賞石として骨董屋から購入した標本だが、表面が研磨されているために球顆の自然な趣が多少損なわれている憾みが残る。また曹灰長石と紫蘇輝石(最近は頑火輝石として統一され紫蘇輝石という分類はなくなった)の層状構造も貧弱で風化の影響かその色合いもいまひとつなので小生としても満足しているわけではないのだが、相手が天然記念物の上に、容易に採集できる場所にもないのであくまで産地が明らかな参考標本として所有している次第である。
さて、この球状ノーライトを最初に発見したのが、かの高壮吉博士と聞くといささか意外な印象を持たれるかもしれない。高博士は、明治から昭和初期にかけて九州帝国大学工学部採鉱学教室の教授を務め、在任中に収集した全国の鉱物標本は金属種を中心に1200種以上に及び、後任の岡本要八郎教授により分類され、「高壮吉鉱物標本」として大学構内に大切に保存展示されている。その標本群の巨大さと豪華さは和田標本に勝るとも劣らないという定評があり、今も見る者を圧倒する。いまだにその分類と産地特定は完成していないというのだから唯驚くしかない。昭和8年に発行された「史跡名勝天然記念物調査報告 第六 香川県編」の円上島球状ノーライトの項にも、「昭和5年3月 九州大学教授 高壮吉博士によって発見せられ球状ノーライトと命名せられたのである。」とあるので、それは間違いのない事実なのだが、その辺の詳しい経緯は長らく不明のままであった。インターネットで公開されている高標本の「分類と配列」にも、球状ノーライト標本の記載はないようで、その発見譚を遡ることも暗礁に乗り上げたままであった。
ところが、かの市之川鉱山の輝安鉱を世に知らしめた功労者である、田中大祐翁の伝記(「田中大祐翁小伝」昭和30年発行)に注目すべき事実が記載されているのを見つけたので、少し長くなるが、ここに紹介させていただく。
「昭和4年の大典後、まもない時のことであった。翁は球状安山岩採集の為め香川県観音寺の沖合伊吹島に赴き、同島の小学校に立寄った所、御真影奉安殿の前に美しい白砂が敷きつめられてあったのに気がついて色々話を進めている中、戸数数百の伊吹島は飲料水に乏しく、天水をためてこれにあてているような水利の悪い所であるが、最近一ヶ所の水源が発見されたとのこと、鉱物や地質に委しい翁を案内してこれを見てもらいたいと申出があったので行ってみたがその水源は岩石の構成上、多量の水源でないことがわかった。
昭和5年、九州大学の教授、高壮吉博士が上阪の途次、観音寺に立ちよることになったので田中翁も同行して前記の水源を再調査し、尚一ヶ所の水源があるのでついでに見て貰いたいと伊吹島の西北にある円上島に渡ることになった。円上島は小さいが文字通り美しい円形の無人島である。勿論繋船場もない島の或る一角に船をつないで投錨し一行は上陸した。
ところが、田中翁の目ふれたものは何も予期しない珍しい球状閃緑岩であった。側に居た高博士と二人は顔を見合せて讃嘆驚喜した。実に偶然とは云いながらも研究心の深い翁に与へられた絶好のチャンスであったのだ。何個かの石を採集し船にのりこんで島を離れ伊吹島及び観音寺へ帰る途中、嬉しさがこみ上げてきたと喜色満面、もともと表情の少ない翁の顔面にも、得意の思出に光りがさしているやうであった。」(秋山英一先生 文)
伊吹島の水源探しが、偶然、球状ノーライトの発見に繋がった経緯が生き生きと語られている。田中翁の故郷が観音寺市であるということも幸いしたかもしれない。そしてなによりも「伯楽の一顧」とも言える高博士との出会い。これらが絡みあってこそ、ノーライトも世に出ることができたと云うことになるのだろう。小生も本文を綴るに当たってできるだけ関係する文献を漁ってみたが、両者に言及するものが皆無に等しかったのは寂しい限りであった。せめて定期的に増刊される「香川県の文化財」にはその端緒を記載して永く後世に伝えていっていただきたいと思う。
(高壮吉博士(左)と田中大祐翁(右))
余計なことかもしれないが、その趣味を持つ者は、好き師との出会いが大切である。世界は異なるが、小生達が子供の頃に憧憬の的であり、アマチュアが斯界の権威を動かせて日本の旧石器時代を開拓した相沢忠洋氏は、その名著「岩宿の発見」の中で、恩師である群馬師範学校の尾崎喜左雄先生の言葉を挙げて、自分の生涯の指針となったことを熱く語っている。
「趣味の収集をするのか、事実の追求に目標を定めるのか、まず自分でやることにけじめをつけなさい。事実の追求をするのだったら多くの文献を読み、着実に事実の集積をつみあげていくことが大切です。事実の集積と学問とは同一であって同一ではない。事実であってもそれを学問のなかにとり入れるというのは容易ではなく、忍耐と努力、そして着実な勉強が大切である。そして、考古学という学問は、一ヶ所や二ヶ所の遺跡発掘報告書を仕上げても結論は出せない。より総合的な考察が必要である。井のなかの蛙にならず、考古学が好古学にならぬよう、着実におやりなさい。あなたにもきっと事実の集積はできる。そのことが学問の基礎となり、勉強ということなのですよ。・・」
今、若い鉱物愛好者が、ややもするとモラルのない乱掘や鉱物売買に走るのは、やはり好き師との出会いが少なくなっているからではないかと小生は思う。それはある意味で非常に不幸なことである。若者をいたずらに非難するより、正しい道を辿れるような鉱物の楽しさをもっともっと彼らに伝えてやりたい・・それが田中翁や相沢氏の希望であり、われら鉱物オヤジの願いでもある訳で、小生如きが生意気な言い草かもしれないが、あえて他山の石としていただければ幸いである。
(左2枚は土井清磨氏提供、右1枚は神原武士氏提供 2009年12月27日)