斑銅鉱(高越鉱山)
徳島県麻植郡山川町 高越鉱山産の斑銅鉱標本。高越鉱山はキースラガー鉱床の斑銅鉱の良好な標本を世に汎く提供してきたことで有名で、掘り出し物の古い鉱物標本箱などで目にする機会も多い。大抵は小さな細片で、他山の斑銅鉱標本と比較してもこれと言った特徴もないのだが、今回の標本は、明治〜昭和にかけて三代に亘る、ある有名収集家の放出品。小さいながらも母岩付き「ハネコミ」の様子がよくわかる。かって明治時代は、高越本坑よりは、周辺の久宗坑や名越坑などが「川田山鉱山」としてさかんに採鉱され、その素晴らしい斑銅鉱標本が、今日も和田標本や高標本をはじめ数多く残されているが、百年の歳月を経て完全に黒ずんで往年の輝きは残念ながら失われている。また富国強兵の源である鉱物は「国の宝」であったことから、国権の象徴たる官学の東大には帝国随一の鉱石標本室が整備され、その中に見事な高越産斑銅鉱もあったと伝えられる。現在も大学博物館に残される別子の巨大な鉱石標本などは実に見事なものである。しかし、信じがたいことだが、40年前の大学紛争時に学生の武器“つぶて”として惜しげもなく押し寄せる官憲に投げつけられ、安田講堂周辺に瓦礫となって散逸してしまったという。確かに銅鉱石は硬いので、学生の身近な武器として恰好のシロモノだったのだろうが、大学が百年かけて収集してきた全国の重要鉱物や各種の貴重標本が路上に無惨にも砕け散る惨状は、紛争の知られざる悲劇として今も語り継がれている。その意味で、別名「東大コレクション」とも称される和田維四郎標本が戦前に三菱に買い取られて現在も生野鉱物館に完全に保存されているのは実に幸運であったというべきで、その中にも当山の斑銅鉱標本が何個か含まれており、当時から「斑銅鉱」といえば「高越鉱山」と言えるほどのブランドであった訳である。小生も、「川田山鉱山」時代の古い標本を奇しくも最近入手することができたので、これはまた別の項目で紹介することとしよう。
ちなみに、下写真は、徳島大学教授 岩崎正夫先生著「徳島県地学図鑑」(徳島新聞社刊)所載の高越鉱山産斑銅鉱標本。母岩に混然一体となった虹色の暈色はうっとりするほど美しく長い間、憧れの的であった。十年ほども前に、三好郡山城町に嘗て存在した「ラピス大歩危」で実際に見たときの感激は今もはっきりと憶えている。華々しい外国産鉱物の片隅にひっそりと展示されていたのを、時間が過ぎるのも忘れて、再会した恋人の如くお互い見つめ続けたものである。小さな施設ながらも、四国で唯一の鉱物啓蒙施設として極めてユニークな存在で、当時の館長さんだった岩崎先生のスタンスには共鳴できる点も多々あったので、小生も手持ちの銅鉱石を何点か寄贈しようと思っていた矢先、赤字経営や町村合併の煽りを受けて閉鎖され、岩崎先生も解任されてしまったのは極めて遺憾である。おまけに、後日、事務次官か大臣だかが同施設を視察して「こんな石を展示しただけではインパクトがない。こんなんじゃ、客はこないよ。」とインタビューに平然と答えていたのをニュースで見て、本当に腹立たしく思ったものである。まあ、事実は事実なのだが、所詮、官僚は官僚である。そんな輩に岩崎先生の高邁な精神がわかる筈もない。彼らのような自分の価値観で目先の利益しか追求しない、かと言って人の税金は湯水の如く無駄に使う・・正にそんな“曲学阿世”の単純頭にこそ、硬い銅鉱石のひとつでも擲ってやりたい心境である・・しかし結局は、そうした官製の“ありがたき”助言と援助を受けて国交省管轄の「道の駅」として最近、生まれ変わったらしいが、岩崎先生の精神が死んだ「ラピス大歩危」など、小生はもう行く気もしない。ただ、あの斑銅鉱をはじめ、岩崎コレクションがその後どうなったのか、それだけがとても気になる今日この頃である。
(「徳島県地学図鑑」(徳島新聞社刊 1990)より転載)
さて、高越鉱山の鉱物の特徴は、なんといっても、鉱床を取り巻く母岩にある。ほとんどは別子と同じ三波川帯緑色片岩であるが、「藍閃石」を多量に含む藍閃片岩を挟在しているのが最大の特徴である。このことは、宮久三千年先生と皆川先生の共著「鉱物採集の旅 四国・瀬戸内編」(築地書館 1975年)にも「徳島県高越鉱山の藍閃石」と一章を設けて詳説されている。藍閃石は低温高圧な環境で生じたソーダを含む角閃石の一種で、もともとは玄武岩質の枕状溶岩が起源とされ、勝浦町付近では、枕状溶岩の丸い枕が同定できるという。(「徳島県地学図鑑」)しかし高圧による変成度が強いため硬度は著しく硬く、近年、四国初の「翡翠輝石」が認められたのも同岩中であり、藍閃石に伴う翡翠の存在は本邦でもここだけの重要鉱物となっている。さらに高越鉱山付近では、エクロジャイトが混在していることが最近明らかになり注目されている。たとえば、下図右(b)は苦礬ザクロ石を混じたオンファス輝石で別子「瀬場帯」のものと酷似した構造がみられ、左(a)は、オンファス輝石と藍閃石(中央部)がラミナ状に混在する状態で、これは別子のエクロジャイトにはみられない特質である。どうして80kmも離れた地域に同じような低温高圧変成岩が限局的に分布しているのか、あるいは藍閃石と翡翠輝石、エクロジャイトを結びつける要素は何なのか等、今後、マントル層の謎を解くカギとして世界中の研究者の目が高越地域に向けられ、さらに解明が進むことが期待されている。そのような母岩の性状が、隣接して包胎する銅鉱床にもなんらかの影響を与えているのであろうか?双方の斑銅鉱などをさらに詳細に分析すれば、また面白い差違が発見できるかもしれないなどと、小さな標本を眺めながら最近考えているのだが、さて如何だろうか・・
(岡山理科大学自然科学研究所研究報告 第26号(平成12年)より転載)
終わりに、小生の思い出話となって恐縮だが、香川にいる独居老人の母が鉱山近くの「ふいご温泉」の大ファンであったので、愛媛在住時には運転手と付き添いを兼ねて、よく高越鉱山を訪れたものである。鉱山事務所があった場所には「こうつの里」という保養施設が作られていて、テニスコートや草木染め体験場をはじめ各種レクリエーション施設も整備され、食事や温泉にも入れるようになっていた。斜面に建つバンガローを過ぎて、悪路を少し進むと通洞坑口がコンクリートで閉鎖されながらも残され、坑水がそのまま流れ出ていた。その一部を「こうつの里」に引き込んで「緑礬鉄泉」としてリウマチなどに効能があると銘打って再利用していた。単なる斜面と思ったのは、実は大きなズリ場で、磁鉄鉱や低品位なキースラガーが容易に採集できたのも懐かしい思い出である。施設の中は薄暗かったが、その一角に郷土資料展示場があって、高越鉱山の鉱石やガスランプ、各種図面などがガラス越しに並べられていた。たまたま居られた地元の方に鉱石について伺ったところ、閉山時には学校や事務所にたくさんの鉱石が残されていたが、いつか町の教育委員会が来てどこかにまとめて運んで行ったという。それ以上は訪ねる術もないが、あるいは今も役場かどこかの片隅に保存されているのかもしれない・・そんな楽しい想像や回顧でのんびりと母を待つ時間を過ごせた「こうつの里」も、利用者の減少や財政難で遂に閉園となり、すべて取り壊されて更地になってしまったという。「こうつの里」の経営母体であった「大阪市中小企業勤労者福祉サービスセンター(OCS)」のHPには、(いつ抹消されるかわからないが・・)今もなお最大の賛辞をもって「徳島県高越山の懐に抱かれた自然豊かな山村。深い森と美しい川のせせらぎに囲まれたやすらぎの場所。春夏秋冬、様々に表情を変える豊かな自然。初めて訪れるのに、なぜか懐かしい。こうつの里はそんなふるさとの景色です。」と紹介されている。鉱山好きの小生にとっても、その通りの穏やかで秘かな「こころの古里」であっただけに、とても惜しまれてならない。