キースラガー(西之川鉱山)

  

 

 愛媛の三波川帯には、別子銅山以外にも小規模な銅山が点々と存在している。そんなひとつ「西之川鉱山」は、石鎚ロープウェイ基地に近い名古瀬谷にあった。大森山の斜面に位置するため「大森鉱山」「野地鉱山赤谷坑」などとも呼ばれる。西之川から成就に向かう旧道脇にある「野地坑」、西条への中継地、河口に位置する「有永坑」とあわせて「野地鉱山」と総称するため少々名前が混同してわかりづらくなっている。さらに周辺には「東之川鉱山」や「瓶ヶ森鉱山」などもあって、昔から相当拓けていた地域となっている。以前は南に聳える稜線の向こう、高知の集落から峠を越えて、女性がはるばるパーマネントをかけに賑やかな西之川に徒歩で通っていたという記録も残っているが、今は想像することさえできない。「西之川鉱山」は、開坑は元禄年間と伝えられるが定かではなく、明治初期に西条の川端某により再発見され、明治22年より住友の所有となってからは別子鉱山の支山として相当の隆盛を見たとのことである。鉱区周辺には粗銅焙焼炉や沈殿収銅所なども設けられており、銅分は1%程度の貧鉱ではあるが、昭和31年度には精鉱2000tを記録している。「四国鉱山誌」の「労働者のほとんどは地元住人で自宅からの通いである。」という一文は、周辺には多くの集落があり、労働力には不自由しなかった当時の世相をよく表していると思われる。

 さて、この鉱石は小生の「宝物」のひとつである。鉱物に興味を持ち始めた頃、友達のT君が、ある日やってきた。「この鉱石は、ボクが中学生の頃、西之川周辺で林間学校に参加したときに川原で拾ったものです。当時は、もっともっとキラキラ輝いていて、とてもキレイだったので記念に持ち帰り、大事に保存していたものです。自分の宝物ですが、参考になればいいと思ったので差し上げます。」と言いながら、小生の手のひらにポンと置いたのが、この鉱石であった。彼が本当に大事にしていた事実は、何度も握りしめられたのを象徴するように表面のさびた部分がテカテカと黒光りしていることでもわかった。こういう鉱石は、どのような立派な標本を手に入れるよりも嬉しくこころに残るものである。なんの変哲もない低品位のキースラガーではあるが、小生の命ある限り、大切な友情の証としてコレクションの中でも特別に輝き続けるかけがえのない鉱石であり、ここに掲載させていただいた。