「別子全山をあおあおとした旧(もと)の姿にして

之を大自然にかえさなければならない」伊庭貞剛

環境対策の先駆者 新居浜の産業・自然の恩人 

                        

明治26年(1893)、硫黄分が多く含まれる銅鉱石の製錬所から出るガスが原因で、別子の山々や新居浜近郊の田畑・山野が枯れるという煙害で、自然や人心が荒廃し、農民や労使の紛争が勃発し、内憂外患を抱えた別子銅山に存亡の危機が迫っていました。

明治27年、48歳の伊庭貞剛は、母の弟で叔父の別子銅山支配人、広瀬宰平のたっての要請で、困難な問題解決のため支配人として着任しました。別子全山、木が生えていない荒れ果てた姿に大変心を痛め、「天地の道理に反する」として、ただちに山林復旧の植林事業を開始しました。

 

伊庭は対話・会話で農民騒動や労使紛争を1年で解決する一方、毎年100万本、多い年は200万本を超す壮大な植林事業を開始しました。

 

伊庭は殺気だった新居浜に来るにあたり命がけの決心をしております。天龍寺の峩山和尚に何か読むものがないかと相談したところ、「臨済録」を渡され、「心配せずに行きなされ、骨はわしが拾うてあげるぞ」といわれたそうです。伊庭は臨済録の教えにある「一身密に覚悟を定め、妻を捨、子を捨、家を捨、初めて自由の働き活発なる妙境にも達し候はば、虫位は少しも頓着不致」との境地に達し、「茲に籠城と覚悟して別子山の鬼ともなるべし、又仏ともなるべしと大一決」して単身別子に乗り込んだのです。当初の反発と怒りは尋常ならざるもののようでした。別子の山に「精神腐敗の虫が湧いていた」のでした。

 

殺気だった暴動や争議を収めるに当たり、上下の意志疎通ができていないことを感知しその改善に取り組みました。駕籠に乗らずよく歩きました。ある時は銅山に入り、ある時は野道をくだり、農民や鉱夫の話に耳を傾けました。着任早々に新居浜製鉄所閉鎖、「えんとつ山」の山根製錬所閉鎖、山林課の再設置(住友林業株式会社の前身)を行い、煙害対策を最優先させるべく、莫大な費用や年月をかけてでも、四阪島への製錬所の統合移転を着手させました。「馬鹿なことを」と思われたのでしょう。「小生は人が嫌う馬鹿な仕事が好きなり」、「事業は人なり」とも言っております。

「難事に己進んでこれに当たり、難事去れば己まず退いて後進に道を譲る」

 

対策の基本的な方針を決め5年後の53歳の時に本店に帰任。

「五ヶ年の跡見返れば雪の山」伊庭貞剛

5kanen

(別子山フォレスターハウスにて 平成24610日)

 

返句「月も花も人に譲りて」品川弥二郎(心友:農林行政・殖産興業に尽力)

 

翌年、広瀬宰平に次ぐ2代目住友家総理事に就任しました。

58歳の若さで「事業の進歩発展に最も害をするものは、青年の過ちではなくて、老人がはびこることである」として退職し石山別荘に隠棲。日露戦争勃発の年でした。

明治38年、59歳の時、四阪島製錬所が本格操業を開始し、東平・山根には収銅所が設置(鉱毒水の中和施設)され、第三通洞―東平―端出場―新居浜間の坑水路の完成をみて、流域河川への鉱毒防止対策が完結したのでした。

 

明治維新の21年前(1847)に生まれ、坂本龍馬より12歳若い。20歳の時(龍馬暗殺事件や大政奉還があった慶応3年)剣道の免許皆伝を授与され、翌年の明治元年に京都御所勤衛隊に編入され、その後26歳で司法少検事、28歳で函館裁判所勤務、31歳で大阪上等裁判所判事、33歳で広瀬宰平に請われ住友家に入りました。その後、衆議院議員も経験。

 

大阪商船会社や住友倉庫、住友鋳鋼場(住友金属工業K.Kの前身)を開設する一方、府立大阪商業高校校長(現大阪市立大学)、大阪紡績株式会社取締役、九州鉄道会社取締役、住友家顧問、住友銀行監査役等を歴任しました。

 

大正15年(1926)没、享年80歳、近江八幡市西宿の伊庭家墓所で静かな眠りについております。禅修行の道にも通じた「徳」の人でもありました。

平成24年に生きていれば165

 

一部、末岡照啓氏(広瀬歴史記念館名誉館長)著「伊庭貞剛小伝」引用

文責:実行委員長 大橋勝英