ESSAY
 


        家

 私の家、といっても母屋になるのですか、築後八十年近くになります。しかし、いまだ家屋の構造は、柱も梁も壁もしっかりしています。私は、この家で生まれ育ちました。この家に愛着を強く感じています。また、桧の大きな家に少なからぬ誇りも持っています。

 しかし、長年の経過とともに、雨漏りのするときがあります。母が修理してほしいというので、屋根裏へ上ってのぞいてみると、雨樋が壊れています。雨樋といってもトタン製の頑丈なもので、厚さは数ミリもあり今これと同じものを作ろうとしても手に入らないのではないかと思うくらいの頑丈さです。今もなお金属色の光沢を放っているのです。ところが、外の風雨にさらされている部分から急に錆びて金属に穴が開いたり、切れたりしています。その部分から雨が伝わり、雨漏りにだったのだと思います。原因がわかったので早速大工に修理を頼みました。

 つくづく考えてみるに、家なり構造物なりが立ち続けるということは大変なことだと思います。それは、重さに耐え、その形を保ち続けるということです。それは反自然であり、不自然なことであるのです。重力に逆らわない自然なあり方は、水が低きに流れるよう、横に寝そべった状態であることが自然のあり方と言えるのでしょう。しかし、それに反し、逆らって立つ、立ちつづけるということが、その家の存在を主張し、同じく誇りを持つのではないでしょうか。そして、これは、人の人生にも重ねて考えることができます。私たち人間は、一生の間、常に立ち続ければならない宿命を背負っているとも考えられるのです。社会的にも精神的にもこの世の中で、時の流れの中で、立ち続けなければならないのでしょう。それは、反自然なことであり不自然でありますが、生きるということはそんなとらえ方もできるのではないかと思いますを。まだわずか四十五年しか生きていませんが、立つことの難しさ、立ち続けることの難しさを考えるこのごろです。
 


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