障害者団体などから「『精神薄弱』という用語は知的な発達に係る障害の
状態を的確に表していない。また、精神・人格全般を否定するかのような
響きがあり、差別や偏見を助長しかねない」と指摘し、表現の変更を求めていた。
小さな頃から、その言葉を聞き、その時の状況(例えば、親が子供に
何かの障害を持っている者に対して、ある言葉でその者を差別するような
ことを言ったり行動したりするなど)がその言葉の意味となり差別をも
作り出すのだと思います。
だから、時間がたつと「知的障害」という言葉が差別用語にもなりうるのです。
「言葉狩り」等という言葉もありますが、まさにそのとおりだと思います。
「差別用語」(そう呼ぶのもおかしい気がしますが)をなくすのではなく、
「差別」をなくすべきなのです。
「土方(ドカタ)」と言う言葉もそうであるようです。あるラジオ番組で司会者と
リスナーが電話で話をしていたのですが、終わった後、「不適切な表現が
ありました。」として謝っていました。たぶんその言葉だと思ったのですが違って
いるかもしれません。
私は自分のことを「土方」だと今も思っています。(本当は自分では
何もしないのですが、それでも「土方」としての誇りを持っているつもりです。)
差別は言葉の問題より意識の問題であると信じています。だから尊敬の意識で
私のことを「土方」と呼んだとしても、何の差別も感じません。
これらは、私の価値観・知識や感情だけで判断していますが他の方は、
そうではなく「差別」を感じるのかもしれません。
その人の気持が解ればこんなこともないのでしょが、。
それぞれの考えがあるはずです。ご意見をお待ちしています。