【細川定禅、官軍を三井寺に破る】

 

南海治乱記・・・延元元年丙子正月、東坂本の官軍新田左中将義貞奥州国司顕家卿楠判官正成等、細川定禅が守る処の三井寺を攻る。官軍の先鋒を下総国の住人千葉之介三千余人を以て馳向ふ。細川方には讃岐国の住人藤橘両党六千余人を以取囲む。正月十六日千葉之介戦死す。其後定禅か陣相保つを得ずして兵を引て還る。官軍利に乗じて京都に攻入り義貞と尊氏と相戦ふ。将軍方大に敗れて尊氏丹波に赴く。義貞の兵洛中に入り分散して乱取をなす。定禅是を察て松尾葉室に扣て四国の兵に向ひ其謀を伸ふ。藤橘伴の党の兵衆是に同意し伊予の軍兵を勝て三百余騎北野の後より上加茂を経て潜に北白川へ廻り糺の森の前にて三百余騎を十方に分ち下り松藪里静原松か崎中加茂三十余ヶ所に火をかけて是をば打捨て一条二条の間にて三所に鬨を挙げたりける。定禅律師か思量の如く敵兵京白川に分散して集らず義貞義助一戦に利を失て東坂本をさして引返す。所々に分散したる官兵騒動して引けるが北白川粟田口の辺にて舟田長門入道大舘左近蔵人由良三郎左衛門尉高田七郎左衛門尉以下宗徒の官兵数百騎討れてけり。早馬を以て将軍家に告しかば山陰山陽へ落行たりし兵共皆京都へ立帰る。義貞朝臣は二万騎を以て将軍方の兵衆十万騎を破り定禅律師は藤橘伴三百余騎をもって官軍二万騎を陥す。彼は項王の勇を心とし此は子房か謀を宗とす。知謀勇力何れ取々なりし人傑也。・・・  (細川定禅、三井寺合戦記;巻之一)

 

太平記・・・・・爰ニ細川定禅、四国ノ勢共ニ向テ宣ケルハ、「軍ノ勝負ハ時ノ運ニ依事ナレバ、強ニ恥ナラネドモ、今日ノ負ハ三井寺ノ合戦ヨリ事始リツル間、我等ガ瑕瑾、人ノ嘲ヲ遁ズ。サレバ態(わざ)ト他ノ勢ヲ交ズシテ、花ヤカナル軍一軍シテ、天下ノ人口ヲ塞ガバヤト思也。推量スルニ、新田ガ勢ハ、終日ノ合戦ニ草伏(くたびれ)テ、敵ニ当リ変ニ応ズル事自在ナルマジ。其外ノ敵共ハ、京白川ノ財宝ニ目ヲカケテ一所ニ在ルベカラズ。其上、赤松筑前守僅ノ勢ニテ下松ニ引(ひか)ヘテ有ツルニ、無代ニ討セタランモ口惜カルベシ。イザヤ殿原、蓮台野ヨリ北白河ヘ打廻テ、赤松ガ勢ト成合、新田ガ勢ヲ一アテアテテ見ン。」ト宣ヘバ、藤・橘・伴ノ者供、「子細候マジ。」トゾ同ジケル。定禅、斜ナラズ喜デ、態将軍(尊氏)ニモ知ラセ奉ラズ、伊予・讃岐ノ勢ノ中ヨリ三百余騎ヲ勝デ、北野ノ後ロヨリ上加茂ヲ経テ、潜ニ北白川ヘゾ廻リケル。糺ノ前ニテ三百余騎ノ勢十方ニ分テ、下松・藪里・静原・松崎・中加茂、三十余箇所ニ火ヲカケテ、此ヲバ打捨テ、一条・二条ノ間ニテ、三所ニ鬨ヲゾ挙タリケル。ゲニモ定禅律師推量ノ如ク、敵京白河ニ分散シテ、一所ヘ寄ル勢少ナカリケレバ、義貞・義助一戦ニ利ヲ失テ、坂本ヲ指シテ引返シケリ。所々ニ打散タル兵共、俄ニ周章テ引ケル間、北白河・粟田口ノ辺ニテ、舟田入道・大館左近蔵人・由良三郎左衞門尉・高田七郎左衞門以下宗ト(宗徒)ノ官軍数百騎討レケリ。卿律師、頓テ早馬ヲ立テ、此由ヲ将軍ヘ申シタリケレバ、山陽・山陰両道ヘ落行ケル兵共、皆京ヘゾ立帰ル。義貞朝臣ハ、僅ニ二万騎勢ヲ以テ将軍ノ八十万騎ヲ懸散ジ、定禅律師ハ、亦三百余騎ノ勢ヲ以テ、官軍ノ二万余騎ヲ追落ス。彼ハ項王ガ勇ヲ心トシ、是ハ張良ガ謀ヲ宗トス。知謀勇力イヅレモ取々ナリシ人傑也。  (建武二年正月十六日合戦事;巻之十五)

 

 

          建武2年11月に讃岐鷺田庄に挙兵した細川定禅は、讃岐勢を率いて備中国に侵攻し福山城(岡山県総社市)に立て籠もったところ、攻める朝廷側には兵は集まらず、主だった国人領主は次々と定禅側に寝返る始末。備前の佐々木信胤も定禅に呼応し三千余騎の大軍勢となり、そのまま上洛する足利尊氏と同期して京に入った。東西より挟撃を受けた後醍醐天皇は東坂本に遷座し代わりに尊氏が入京するとともに、山崎にて官軍を破った細川勢は洛中に乱入して皇居や周辺の邸宅に放火してから三井寺に陣を構えた。そうこうするうちに尊氏を追って奥州から駆けつけた北畠顕家が新田義貞や楠木正成に加わると形成は一気に逆転、その日のうちに定禅の立て籠もる三井寺を襲撃して追い出してしまった。さらに新田側は策を巡らし、京に引き返す足利軍の中に少人数づつ兵将を潜り込ませてあちこちで鬨の声を挙げると、大軍の悲しさか、同士討ちや不意打ちの恐怖で大混乱に陥り尊氏は丹波を指して落ちていった。

          これに口惜しさを感じた定禅は、前日の三井寺の敗走の汚名を雪ごうと尊氏にも知らせずに少勢で北野から、上加茂、北白川と京を北に大きく迂回する経路で官軍に突入し、新田軍を坂本に敗走させることに成功した。定禅の配下の“藤橘伴の党の兵衆”とあるのは讃岐藤家、讃岐橘氏などの讃岐勢で、伴氏はおそらく多度郡の伴宗(⇒)の後裔ではないだろうか?佐伯氏と同根であるとする考えもあるようだ(⇒)。定禅の勢力がすでに西讃にも及んでいることを示唆するようでとても興味深い。上記の「南海治乱記」と「太平記」の記事はまさにその場面を描いている。双方とも、ほとんど同じ文面なので、香西成資が太平記を底本としていることは明らかである。治乱記の太平記からの引用は決して多くはないが、兵法家の成資が細川定禅の鮮やかな軍略を評価して治乱記の冒頭に掲げたのは十分に理解できることである。同年の“湊川の戦い”では讃岐勢が奮戦しているのだが、それについては一切触れられていないのも、そのことを如実に物語っているようだ。

 

          細川定禅は細川頼貞の3男で、鎌倉の鶴岡八幡宮若宮別当を務めた(図1.図3.参照)。僧籍でもあり権少僧都であったので律師定禅とも呼ばれる。足利尊氏に従い、四国挙兵や湊川の戦いを始め、数々の戦功を挙げて足利政権を支えた。しかし、延元4/暦応2年(1339年)8月の記録を最後に史料から姿を消し、この頃、病没したとものと考えられている。父や兄弟の年齢から推測するとわずか二十歳代での夭折で、惜しみてもなお余りあることである。子孫については伝わっておらず、僧籍のため妻帯はしなかったのかもしれない(⇒)。図2.は「本朝百将伝」(国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)の細川定禅肖像。“画賛”にも、この項目の記事のことが書かれている。古代から秀吉までの百人の武将の中に入るとは、やはり並み居る猛将智将の中でも“タダ者”ではなかったことが十分に偲ばれる。

頼貞の嫡男は奥州家(官名の陸奥守による)と呼ばれ顕氏、繁氏と讃岐守護に任じられたが、繁氏が不慮の死(崇徳上皇の祟り?)を遂げたことで細川頼之に取って替わられた。顕氏は讃岐守護時代、中先代の乱で討死した父、頼貞の菩提を弔うために宇多津に長興寺(頼貞の法名、長興寺義阿による)を建立し讃岐安国寺にも充てられたが現在は廃されて“長興寺の井戸”にその名を留めているに過ぎない。ただ、その背後の山に“義阿の墓”と呼ばれる巨石(三ツ岩;おそらく古代の巨石記念物)が現存し町民の憩いの場となっている(「宇多津町史」 昭和33年)。讃岐守護のその後は頼之の系統に引き継がれ、管領を輩出する細川家嫡流の京兆家として幕府の中枢を担うこととなる。

 

図1.細川氏の系図(部分)。頼貞の3男に定禅の名が見える。(「尊卑分脈」より抜粋)[一田1] 

                  (国立国会図書館デジタルコレクションより転載、一部合成)

 

     

図2.細川定禅肖像。(「本朝百将伝」より)        図3.図1における細川定禅周辺の拡大。  

(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)

 

                                 

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