【正平の一統、成る】
太平記・・・・足利宰相中将義詮朝臣ハ、将軍鎌倉ヘ下リ給シ時京都守護ノ為ニ残レ坐シケルガ、関東ノ合戦ノ左右は未ダ聞ヘズ、京都ハ以外ニ無勢也。角テハ如何様、和田・楠ニ寄ラレテ、云フ甲斐無ク京ヲ落サレヌトヲボシケレバ、一旦事ヲ謀テ、暫ク洛中ヲ無為ナラシメン為ニ、吉野殿ヘ使者ヲ立テ、「今ヨリ以後ハ、御治世ノ御事ト、国衙ノ郷保、并ニ本家領家、年来進止ノ地ニ於テハ、武家一向其綺(いろひ)ヲ止ムベクニテ候。只承久以後新補ノ率法并ニ国々ノ守護識、地頭御家人ノ所帯ヲ武家ノ成敗ニ許レテ、君臣和睦ノ恩慧ヲ施サレ候ハ、武臣七徳ノ干戈ヲ収テ、聖主万歳ノ宝祚ヲ仰ギ奉ルベシト。」頻ニ奏聞ヲゾ経ラレケル。
之ニ依テ諸卿僉議有テ、先ニ直義入道和睦ヲ由ヲ申テ、言ノ下ニ変ジヌ。是モ亦偽テ申ス條子細無ク覚レドモ、謀ノ一途タレバ、先義詮ガ申ス旨ニ任セラレ、帝都還幸ノ儀ヲ催シ、而後ニ、義詮ヲバ畿内・近国ノ勢ヲ以テ退治シ、尊氏ヲバ義貞ガ子供ニ仰付テ、則追罰セラルルニ何ノ子細カ有ルベキトテ、御問答再往ニモ及バズ、御合体ノ事子細非ジトゾ仰サレケル。・・
(巻第三十;吉野殿、相公羽林ト御和睦ノ事)
延元1〜3(建武3〜暦応1)年にかけて、新政を離反した足利尊氏と戦った“三木一草”(楠木正成、名和長年、結城親光、千種忠顕)や新田義貞も次々と戦死して南朝は非常な苦境に立たされた。追い打ちをかけるように翌年には後醍醐天皇も崩御し、9年後には楠木正行も四條畷に散ると正行を討ち取った高師直、師泰兄弟が次第に幕府内で横暴を振るうようになる。それまでは足利尊氏が征夷大将軍として武家を統括し、弟の直義が左兵衛督に任命され朝廷や公事方の仲介や訴訟を担当する、いわゆる“二頭政治”がおこなわれていたが、武士が横領する公家の領地に関する裁断は難航を極め、武家寄りの尊氏と公家寄りの直義はしばしば意見が対立し、それは家臣や武士団にも影響を及ぼしていった。特に執事の高師直や佐々木高氏(道誉)、土岐頼遠らの武断派は直義の政治におおいに不満を抱き朝廷や公家に対して平気でこれ見よがしの無礼を働くようになる。さらに直義派の上杉重能や畠山直宗らが師直を讒言し、怒った師直が両者を配流の上暗殺する事件が発生すると、直義が光厳上皇や尊氏に強訴して師直を執事から引きずり下ろすことに成功するが、四條畷で南朝軍を打ち破った高軍は武力に任せてそのまま尊氏もろとも直義を包囲した。いわゆる“御所巻”である。この一連の緊張の高まりが“観応の擾乱”の端緒となった(⇒❡)。
こうして直義は権力の座を奪われ、代わって尊氏嫡男の義詮が鎌倉から上洛する。これに対抗したのが尊氏の庶子にして直義の養子となっていた長門探題の足利直冬である。結構、人望もあったようで短期間の内に中国から九州まで勢力を拡大し少弐頼尚は喜んで婿に迎えるという始末。脅威を感じた尊氏は直冬追討令を発し自身も備前まで進軍するが、その間隙を縫って直義が南朝に帰順し挙兵、京都を奪回した。細川顕氏が直義側についたのもこの頃である。尊氏も直冬追討を中止して反撃を開始するも叶わず、義詮と共に丹波を経て書写山で高兄弟と合流、摂津の打出浜で両軍が激突し結局、直義が勝利した。高兄弟が出家するなどの条件で和睦するが、護送途中で上杉重能の子の上杉能憲らによって両人とも暗殺された。これにより直義はふたたび義詮を補佐するが両者の関係がうまくいく筈もなく義詮が直義派の桃井直常の暗殺を企てるに及んで、尊氏は佐々木道誉に謀反の疑いありとして急に近江に出兵し、義詮も赤松則祐を討つと称して播磨に出兵した。京都を夾撃する計画であることは誰の眼にも明らかであったので、直義は桃井直常らの意見に従って京都を脱出、近江で体勢を立て直そうとしたが叶わず、北陸から信濃を経て鎌倉に逃亡した。これだけの慌ただしい事件が次から次へ正平5〜6(観応1〜2)年のわずか2年のうちに起こったのであるから頭の中で整理するだけでも一苦労である。
さて、鎌倉の直義を討つためには背後の南朝や足利直冬の進攻を食い止めなければならない。特に南朝は楠木正儀や和田助氏の軍勢が足利の兄弟喧嘩の間に勢力をつけており、これを放置して関東に進軍など不可能に近い状態であった。かといって直義の南朝降伏のように見せかけの方便程度では老獪な亜相殿(北畠親房;尊氏がこう呼んだ)に簡単に見透かされて意味をなさないであろう。そこで尊氏は南朝に降伏、同時に北朝の崇光天皇,皇太子直仁親王を廃し、三種の神器を南朝に引き渡すという思い切った提案をした。もちろん、後村上天皇の都への還幸も条件のひとつとした。これにはさすがの南朝も真意を疑いつつもとりあえず承引し、それを見届けた尊氏は細かい折衝を義詮に任せて関東に出陣した。こうして北朝の“観応”は即日廃止され“正平”に統一された。これを“正平の一統”と呼んでいる。正平6(観応2)年10月のことであった。征夷大将軍にも任命してもらい、あれだけ大きな恩義のある北朝の朝廷をいとも簡単に否定する尊氏の神経を疑ってしまうが、それだけ早く直義を討伐しなければならない“のっぴきならない”状況に追い込まれていたことは間違いない。南朝にしても、冒頭の「太平記」の記事のように、さしあたり一統を成立させて後村上天皇を都にお戻しし、そのあとで直義討伐に疲弊した尊氏と義詮を新田や楠木に命じて一挙に殲滅すればよい、という打算もあった訳である。
しかし、その後の尊氏の対応は早かった。瞬く間に鎌倉まで攻め入って直義を降伏させ延福寺に幽閉したが、翌正平7年2月26日に直義は急死した。この日は高兄弟の一周忌にも当たっており(尊氏によって)毒殺されたとの説もある(太平記など)。ともあれ、直義の死を以て観応の擾乱はとりあえず終息したのである。
足利と南朝がお互いに和睦案を遵守しておれば、その後も後村上天皇の治世が続き、足利尊氏も晴れて後醍醐天皇の嫡流から征夷大将軍に任命され目出度し目出度しとなった筈であるが、正平の一統は南朝側の一方的な破棄によって直義の死の直前に消滅した。まず、正平7年2月6日に尊氏の征夷大将軍を解き(もともと南朝は任命していないが・・)宗良親王が新たに任じられた。さらに2月19日には和田、楠木の大軍が都に進軍して留守を預かる義詮軍と激戦となり、細川頼春、香西家資らが戦死、義詮は近江に逃れた。都に取り残された北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁親王は南軍によって拉致され、賀名生に幽閉されるという信じられない事態となったが、さすが尊氏軍は武運強く、結集した宗良親王や新田義宗らを武蔵野各地で破り、最終決戦である笛吹峠の戦いでも勝利して関東の南朝軍を壊滅させた(⇒❡)。
直ちに踵を返して上京した尊氏は南朝を都から追い落とし、男山八幡宮まで遷御されていた後村上天皇も5月には早くも吉野に撤退するしか術はなかったのである。天皇も神器も都には存在しない異常事態となったが、光厳天皇の三宮である弥仁親王をむりやり践祚させて後光厳天皇とし北朝が復活した。その後、拉致された三上皇も都に送り返されている。三種の神器も後年、義満の南北朝統一時(1392年)に北朝に収まったが、神器のないその間の北朝を正式に認めるかどうかは今なお微妙な問題である。
この正平の一統を一方的に破棄した南朝の行動は北畠親房が主導したと言われるが、結局は彼の大きな勇み足と誤算となってしまった。ひとつ運命の賽の目が狂えば、現在の天皇家は南朝の系統となっていたかもしれず、正平の一統は足利尊氏が作り、頑迷な北畠親房が潰した日本史上の最も大きな分岐点のひとつであったとも言えるだろう。見方を変えれば南朝の忠臣は尊氏であり、逆臣?は親房であったと言えるのかもしれないのだが・・しかし、その後も続く混沌とした南北朝の戦いをみれば、そんな単純なことではないかもしれない・・いやいや、不敬、不敬・・黙すべし、黙すべし・・
図1.「武将略伝」の後村上天皇還幸図。「二月 細川頼春うち死に」とある。(拡大は画像をクリック!)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より転載、一部、合成。)