【白峰合戦記】

 

南海治乱記・・其此、細川右馬頭頼之は四国の兵卒を引率し備中国へ渉て山陽道の蜂起を静んとする処に本国に事ありと聞て讃州へ引還し宇足津に到着す。頼之知謀深く機変時と共に消息する人なれば先づ母儀の禅尼を以て清氏が許へ和議のことを言やりて言を尽し清氏が心を和げ其問答に日を経る中に宇足津の城を築き中国の兵を待附て其後は事延引す。

清氏の陣は白峯の麓にあり、頼之の陣は宇足津なれば其中僅に二里也。互に隙を窺て数日を送る。さる程に頼之の兵士は阿波讃岐の通路を絶れぬ、中国の兵士は備前国の住人飽浦権守信胤と云者宮方に成、海上を警固し阿波の小笠原美濃守と云者清氏に同心して海路をさし塞しかば宇足津の糧食闕乏して兵衆日々に減少す。清氏は兵威を振い諸国に与力する者多し。

七月二十三日の朝、頼之帷帳を出て新開遠江守真行を召て言て曰、当国両陣の躰を見るに敵は日々に佚し身方は月々労す、日数を送らば不計の難も有べし、今事を計るに中院源少将、西長尾城にあり、是に兵を指向て攻べき形勢をなさば清氏も亦兵を分つて城に入るべし、其時我兵、城を攻べき偽勢をなし向城を取て篝をたき捨て直道より兵を引て清氏が城に寄べし、頼之宇足津より出て搦手に向ひ少兵を出て敵を欺べし、清氏、こらえざる気象の者なれば一騎にても駆出べし、其時一挙にして大敵を破べしとて新開遠江守に四国中国の兵五百余騎を附て指遣す。路次の在家に火を放て西長尾の城に向ふ。

清氏、これを聞て敵、西長尾の城を陥し後へ廻らんと計るぞ、中院殿を援べしとて舎弟左馬助従弟掃部助に一千余兵を附て西長尾城に入しむ、新開兼ての謀なれば足軽少々指向て城下の在家を放火し向陣を取たりける。夜すでに更ければ向陣の篝を多く焼捨て直道より白峯の麓、清氏の城に押奇る、頼之兼て定たる如く廿四日辰の刻に搦手へ向ひ先鋒二百余騎を二手に分て指向け鬨の声を発す。清氏素より我が一身の武勇に傲る性なれば奇手の旗を見ると均く二の木戸を開せ小具足をだも固めず、袷の小袖に鎧ばかり取て抛かけ馬上にて上帯しめ唯一騎かけ出せば相従ふ兵三十余人物具をも聢(じっと)固(かためず)して頼之戦列をば整たる兵一千余人が中へかけ入り八方に駆散す。

寄手一千余人、清氏が卅余人に破られて人馬ども辟易せり。野木備前次郎柿原孫四郎二人をば清氏、鞍の前輪に引付頸かき切て太刀の先に貫き指上て唐土天竺のこと知らず、我秋津洲に於て清氏に勝る勇武の者や有る、敵も他家の者に非ず、蓬(きたな)き帥して笑なと詈て只一騎多兵の中に駆入る。飽まで馬強なる打物の達者なれば北(にぐる)を遂て伐落す。其鉾先に廻る者は人馬ともに打居らる、爰に備中国の住人陶山三郎と備前国の住人伊賀掃部助と二人、田の中なる細道を静々と引て行く。清氏追付て伐と諸鐙を合て馳行を陶山が中間傍の溝に下り立て清氏の馬の草脇を突く、さしもの駿馬なれども立すくみに成て動かず、清氏、敵の馬を奪んと太刀を逆に杖ついて立りける。備中の住人真壁孫四郎馳寄て一太刀打て当倒んとする処を、清氏走寄て真壁を馬より引落し中に指上立れたり。伊賀掃部助高光駆合する敵二人切て落し清氏に行逢んと東西に眼賦(めくばり)する処に真壁を中に提げ其馬に乗んとする者あり。穴夥しき勇力かな、凡夫には有べからず、願処の幸と畠を直違に馬を馳て清氏と組、清氏真壁を抛捨て掃部助を射向の袖の下に押へて頸を掻んとす。掃部助、心早き者にて組と均く清氏が鎧の草摺をはね上、三刀刺す、刺れて弱る処を押返て頸を取る。さしも名高き勇猛の将なれども一人の武勇を事とし続く身方もなく森次郎左衛門尉と鈴木孫七郎と二人の外は一所同死の者もなし。

西長尾の城の援兵たりし左馬助掃部助は廿四日の曙に新開が陣を見渡ば人気絶て音もせず、両人扨は敵の謀に乗たる者ならんとて両鐙を合て馳返す。新開遠江守、切所に待請け戦うと云へども利なくして馳破れて引退く。左馬助掃部助勝鬨を揚げ気色奪て白峯の城へ帰る。然る処に清氏自ら戦て死し城は敵方へのり取て旗を立替たれば力なく両将敗卒を集て淡路の国に引退く。此州の者どもも清氏の戦死を聞て心変せしかば又小船に乗て和泉国へ渡れける。是而巳ならず西長尾城も攻ざるに落て退散す。

此高殿の城は人力を用て築きたる城なれば敵、多兵を以て攻るとも容易に陥べき城に非ず、清氏能く守て西長尾の身方の兵帰来を待て戦はば其勝ことや必せり、清氏、自身の武勇に侈(おごっ)て将たる道を失ひ兵卒を無用にして天下の大事を破り、宮方を亡せしこそ浅ましけれ。大将の武勇と士卒の武勇と同じからず、主将士卒各其職とする処の者あり、必ず知べきこと也。是よりして四国一統に細川右馬頭頼之に服従し、中国までも靡き従ひ徳威兼行しかば京都将軍家股肱の臣と成て細川門葉の先途として光栄をなし玉ふ也。   (細川清氏、讃岐合戦記;巻之一)

 

図1.奮戦する細川清氏。野木備前次郎と柿原孫四郎が討たれた場面。

                              (「金毘羅参詣名所図会」より転載、一部合成。(拡大が画像をクリック!))

 

清氏が白山に兵を結集させていることを知った頼之は、将軍義詮の清氏追討令を受けて備中から讃岐の宇多津に上陸し青野山付近に布陣した。清氏も急ぎ綾郡高屋城に軍勢を移動し頼之と対峙する。「此時若シ相模守(清氏)、敵(頼之)ノ船ヨリアガランズル処ヘ、馳向テ戦ハバ、一戦モ利アルマジカリシヲ・・」と「太平記」でも論評されているように、清氏の戦術が一歩遅れてしまったために頼之上陸の機先を制することができなかったのは大きな誤算となった。しかし、清氏の軍勢はますます盛んとなり頼之は海上をほとんど封鎖されていることもあって兵数は日に日に少なくなっていった。協力を仰いだ伊予の河野通盛も清氏と示し合わせたように動こうとはしない(⇒)。そこで窮余の一策を案じ自身の母(母儀ノ禅尼)を清氏の元に送りいろいろと宥めたり賺たりしながら陣固めの時間稼ぎをしたのであった。しかし、頼之ほどの人物が叔母と甥の関係とはいいながら万が一、実母を人質にされてしまえば状況はさらに悪化してしまうし末代まで親不孝の誹りを免れない訳だから、猪熊信男はその著「細川清氏と細川頼之」の中で「然し何故に老母を態々備中辺の陣所に伴うていたのか、中国の管領としての頼之が長滞在を敢えてしていたにもよるか其程が判明ぜぬ、頼之程の人が斯かる詭謀を弄するのに程があると云って批難さるる傾がある。依て細川十翁などはその著「細川頼之補伝」中に「本当に清氏を諭すものの如くであったが義詮が頑として許容せなかったので、事此挙に及んだものか」と云う風に弁じて居られる。」と頼之を弁護している。園太暦によれば、数年前の延文元年(1356年)に「尊氏が直冬征討軍を起こすと、頼之は備後国守護に補任され、九州で勢力を持っていた直冬の追討を指揮する大将を命じられた。この時頼之は、闕所処分権を将軍尊氏に拒否されたため、就任を固辞し阿波へ下国しようとしたが、従兄清氏の説得で帰京したという。」(⇒)とあるように二人は従兄弟以上に信頼しあった仲でもあり、叔母を派遣したのも時間稼ぎの戦術ではなく、本当に清氏を宥めて事態を平和裡に収拾しようとしたのかもしれない。もちろん、事前に両者で了解しあってのことだったのだろう。しかし、義詮が頑なに清氏を赦免しなかったために対決姿勢を取らざるを得なかったのである。また、「全讃史」の鵜足郡土器村の田潮八幡宮の項には「細川管領頼之、雄山の(清氏)の陣を攻むる時祈る所なり。時に(中院)源少将西長尾に在り、偏師(一部の兵)を以て管領の営を襲ふ。管領之を遁がる。敵即ち之を逐はんと欲すれば、潮管領の迹に随ひて田野に漲る。是を以て敵竟に逐ふこと能はざりき。因つて田潮と曰ふ。・・」とあって、戦いを仕掛けたのは中院源少将の方であったとも伝えており、二人の思惑とはうらはらに戦わざるを得ない状況に追い込まれていったとみることもできよう。

軍勢は圧倒的に清氏の方が有利であるから決着をつけるには短期決戦しかない。そこで秋の気配の7月23日朝、頼之は股肱の臣である新開遠江守真行を呼び寄せてそれこそ“詭謀”の一策を授けるのである。「夜に入る頃合いを見て松明や篝火を盛んに点しながら南に中院源少将の籠もる西長尾城を攻めるように見せかけよ、さすれば清氏は必ずや援兵を送るであろう。明日早朝に自分は残りの兵で高屋城の搦手に回るから、其方は夜中に西長尾付近に篝火を点したまま早々に引き返し朝には高屋城の大手から攻め寄せよ。清氏は己の武勇を頼んで必ず飛び出してくるに違いない。そこを討ち取るのだ!」という陽動作戦である。夜に入り南へ向かう数百の夥しい松明の動きを察知した清氏は、即座に源少将を救援するべく弟の左馬助や従兄弟の掃部助に一千余騎のほとんどの兵をつけて西長尾に差し向けたのである。朝になり頼之軍が高屋城に押し寄せると、謀られたと逆上した清氏は、案の定、城から単騎、小具足も堅めずに飛び出して敵軍の中に駆け込んでいった。従う兵をわずかに三十余騎、周囲は海岸に近い泥田でたちまち死骸で覆われていった。野木備前次郎(乃木希典の先祖とされる)や柿原孫四郎も討たれて頸を太刀の切っ先に貫かれてしまった(図1.)。それを差し上げつつ「唐、天竺のことはいざ知らず、本朝において清氏に勝る者ありとは誰も言うまいぞ、卑怯な振る舞いをして笑われるな!」と挑発する始末。田の細道を引き上げていく備中の住人、真壁孫四郎(「南海治乱記」では陶山三郎となっている)と備前の伊賀掃部助を見つけて追いついたところを陶山の中間が鑓で清氏の馬の脚を突き刺した。立ちすくんだ馬を捨てなおも敵の馬を奪おうと馬上から挑みかかってきた真壁を引きずり倒しその馬に乗ろうとする清氏に、伊賀掃部助が組み付いたのである。力に勝る清氏は掃部助を袖の下に押さえつけ頸を掻こうと帯の刀に手をやるが、素早い掃部助は組み敷かれた時にすでに短刀を抜いており清氏の草摺を跳ね上げざま三刀続けざまに刺し、弱った清氏を逆に押さえ込んで遂に首級を挙げるのに成功した。清氏に続いた三十余騎の兵将も全て戦死したのである。一方、西長尾に向かった一千騎は夜が明けて欺かれたと知るや一目散に引き返すが新開の一部の兵が途中の難所で待ち受けたために手間取ってしまい、高屋城に近づいた時に敗残兵に行き会ってすでに清氏が討たれたことを知り、高屋城にも見知らぬ旗がはためくのを見て落胆し左馬助、掃部助とも淡路を指して落ちていった。さらに西長尾城も落城し、四国は一気に細川頼之に靡くこととなった。「太平記」や「南海治乱記」で「高屋城は容易に陥落しない城なので、西長尾に向かった兵の帰るのを待って戦えば必ず勝機があったものを、己の武勇に奢って大将たる道を失い(「太平記では「軍立餘リニ大早ナル人ナリケレバ」・・つまり“せっかちな”人)一兵卒の手に討たれて宮方を滅ぼしてしまったのは浅ましいことである。凡そ大将の武勇と兵卒の武勇とは同じではなくそれぞれの本分があるのである。」と木曽義仲や新田義貞の横死を例に挙げつつ批評しているのも十分に納得できるのである。

 

      

図2.遍照院付近から西を望む。           図3.雄山山上部より西を望む。           図4.角山より雄山、雌山方面を望む。

                                             (山名などを入れた拡大は画像をクリック!) 

 

さて、戦いの模様は様々な成書にもっと文学的にリアルに描かれているので(例えば「城と炎と血天井」十河信善著 昭和53年)、そちらを参考にしていただくとして、ここでは高屋城の位置と新開真行の行路についての私見を述べてみたい。と言っても参考にできる史料は「太平記」しかなく「南海治乱記」その他の著作も「太平記」を参考に後世に編集されたものであるから“考察”と呼べるほどのものではないのだが、50年近くも前、月一回の土曜日の夜長に、郷土史家の川畑迪氏宅で開かれていた「坂出史談会」で白峰合戦が議論になったことを思い出しながらその“謎”を綴ってみようと思う。

1.      高屋城の位置

多くの史書では高屋城は現在の“遍照院”であると考えられている。林田から高屋に抜ける雄山東南の山裾で標高は約20mである。「太平記」の「此城元来鳥モ翔リ難キ程ニ拵タレバ、寄手縦ヒ如何ナル大勢ナリ共、十日廿日ガ中ニハ、容易ニ攻落スベキ城ナラズ。」は如何にもオーバーに感じて、むしろ雄山の頂上の方がまだ妥当ではないかとみる向きもある。坂出には城山(キヤマ;西長尾城の城山(しろやま)と紛らわしいのでご注意を・・本項の城山はすべて“キヤマ”である)という巨大な古代山城が存在するものの南北朝時代あたりで城郭や砦の部類が存在していたという確証はなく、遍照院周辺は綾北の郡司であった綾氏(綾高遠の後裔)の屋敷跡とも伝えられ(「香川県中世城館跡詳細分布調査報告」(香川県教育委員会 平成15年))、東讃の白山から移ってまだ間もない1000騎を越す軍勢が駐留できる場所としてはやはりここしか考えにくいのである。地形的にも当時の林田付近は綾川河口のデルタ地帯で湿地帯が拡がっており、現在の坂出市街も福江付近まで浅海の入り江であったと思われわずか8km西に構える頼之と対峙するには直線的に攻められないだけにこの地が最適の地であることには違いないだろう。7月23日夜、頼之方の新開真行は餌兵となる500騎の軍勢を率いて宇多津から南に西長尾城に向かう。その様子は「太平記」では「新開遠江守ニ、四国・中国ノ兵五百余騎ヲ相副、路次ノ在家ニ火ヲ懸テ、西長尾ヘ向ラレケル。案ノ如ク、相模守是ヲ見テ、敵ハ西長尾ノ城ヲ攻落シテ、後ヘ廻ラント巧ケルゾ。中院殿ニ合力セデハ叶マジトテ、舎弟左馬助、イトコノ掃部助ヲ両大将トシテ、千余騎ノ勢ヲ西長尾ノ城ニ差向ラル。」とあり、「南海治乱記」の「清氏、これを聞て敵、西長尾の城を陥し後へ廻らんと計るぞ・・」と違いがあるが、ここでは清氏が実際に夥しい松明が南に動くのを目視して援兵を決断したことにしよう。図2.は、遍照院付近から西を見た写真であるが、一番北の聖通寺山は雄山の陰に隠れて見えず、南に続く茶臼山、角山の稜線に隠れて宇多津方面をみることはできない。車で少し南に産業道路を走ってみても、聖通寺〜角山の向こうの宇多津を望むことは難しいようだ。さらに南の津之郷から川津にかけても金山や大きな城山の山体に隠れて全くみえないのである。ならば標高約140mの雄山の頂上付近ではどうかと思い、夕暮れに山上から撮影したのが図3.である。木々が邪魔で雨も降って分かりにくいが、中央の山が聖通寺山である。手前に坂出の街明かりは見えるものの宇多津方面の街灯は川津方面も含めてほとんど望めない。これでは頼之にとって餌兵の意義がほとんどないのである。それではどのあたりなら宇多津がみえるかということになると、やはり標高が400mに迫る白峰山の山上、あるいは休暇村讃岐五色台(旧五色台国民休暇村)のある北峰付近となるだろう。図5.は白峰パークセンター(白峰寺手前)、図6.は休暇村からのgoogleストリートビューである。特に休暇村からは坂出の笠山の向こうに川津方面の展望も極めて良好で南に急ぐ数百の松明の灯り(図7.の@)は夜目にも著く見えたに違いなく、川畑氏は全軍でないとしても清氏の中枢部は五色台にあったに違いない、白峰の稚児ヶ岳や北峰の土岳の岩壁も「鳥モ翔リ難キ」という表現によく合うと力説されていた。確かに当時の城は後醍醐天皇が籠もった船上山を始め伊予の世田山城、阿波の八つ石城など峻険な山を巧みに利用した規模の大きなものが多く十分にあり得るように今も小生は思うのである。ただ、この高度を以てしても、飯山町や西長尾城方面は城山が邪魔をして全くみることはできない。

一方、もし弱軍の頼之が宇多津に防御線を敷くのではなく、聖通寺山から茶臼山、角山の稜線に或いは坂出側の山麓まで出張っていたなら、遍照院からでもその灯りははっきりと認識できたはずで、それらが一斉に動けば相当に目立ったはずだという意見もあった(図7.のA)。図4.は角山から東に白峰方面の展望であるが視界を遮るものは何もない。清氏が宇多津に攻め込む場合は江尻から笠山、常山山麓の福江を経て進軍してくるであろうから、おそらく角山や茶臼山にも簡単な見張り所や烽台が設けられていたに違いなく、角山は四国に帰省した折に今も毎朝登る山だけに、もし頼之の術中に陥らなければ清氏の軍勢が一丸となってこちらに押し寄せる様を想像しながら山頂でのひとときをひとり楽しむのである。さて、さて、高屋城の場所は遍照院なのか雄山なのか、はたまた五色台山上なのか・・当時の遺構などは今のところ何も発見されていないが、「綾北問尋鈔」(「香川叢書第三」所収(⇒))には「古戦場 慈氏山(遍照院)の西の岳に有り。細川相模守清氏の古城なり。清氏は此所にて討死し玉ふと云。太平記に、白峰の麓に城郭を構へしと有は爰なるべし。今は畠と成りて、里人耕作するに、武器等を拾ふ事度々なり。爾れども久しく土中に有、鉄性朽て用るに足らず。」と史跡三十六(鵆(ちどり)の松⇒)とは別項で記載されており、何とはなく雄山の東斜面にその存在を仄めかしている。このあたりは今もミカン畑になっているから何らかの遺構や遺物の発見に期待したいところである。

 

          

図5.白峰パークセンター付近から西を望むストリートビュー。        図6.休暇村讃岐五色台付近から西を望むストリートビュー。

                                              (山名などを入れた拡大は画像をクリック!)

 

2.新開真行の行路

西長尾城に向かった新開遠江守は夜半に篝火のみを残して高屋城へと引き返す。後世の作ではあるが「讃岐廻遊記」(「香川叢書第三」所収⇒)には「篝を焚せ、岡田下村迄押寄せけれは、白峰より是を見て、手の立士を長尾に指向ける跡に・・」とあるので岡田付近まで進んだことがわかる。しかし、高屋城付近からは岡田や西長尾城は手前の城山が障壁となって全く見ることはできない。また「萬塚 岡田村に有。古戰場。細川ョ之公、鵜足津より在々に火をかけ押寄せし節、長尾城より出張の所也。小き玉あり。金剛砂かと思へば左に而もなく、穴の明たるを考れば、昔しの甲冑の飾りもの也。赤茶色白いろいろと有。今は稀也。塚至而數多、故に萬塚といふ。是の戰より落城なり。」(⇒)と記されている。穴の開いた小玉は、岡田万恁テ墳(古墳時代後期)の色とりどりのガラス玉と思われるがこの戦いの甲冑の飾り物と捉えているのが面白く考古学的にも大変貴重な記録であろう。・・それはさておき、「太平記」には「新開、向陣ニ篝ヲ多ク焼残シテ、山ヲ超ル直道ノ有ケルヨリ引返シテ、相模守ノ城ノ前、白峰ノ麓ヘ押寄ル。」とある。清氏方が新開を追ってどの道を通過して西長尾に押し寄せたかは想像しかないものの、高屋城に進出してまだ日の浅い二人の大将に率いられた軍勢であるから宇多津の頼之に追撃を受けにくく道の状態の良い南海道を通ったのではないだろうか?「敵ハ西長尾ノ城ヲ攻落シテ、後ヘ廻ラント巧ケルゾ。」という言葉もそれを暗示させる。そうすると城からまっすぐ南に下り府中の国司庁から新宮、迯田、額坂、坂本に至る城山の南側を迂回するルートDとなる。一方、新開の軍は坂本付近で一部の軍を岡田付近まで進ませ西長尾に対する“向陣”としB、本隊は清氏方と遭遇しないためにも間道を通って綾北に一気に引き返したと考えられる。その行程は「山ヲ超ル直道」という表現からも川津から奥、八十場へと抜ける城山と常山、金山の間を抜けるルートCが最短で最も可能性が高いのではないだろうか?川畑氏も史談会で、東から来た南海道は甲智駅(現在の府中、あるいは新宮付近)から城山の南を通るのが一般的な説だが、城山の北面を通り西庄、八十場から川津に抜けるルートもあって当然で駅馬の駐在を考えると国司庁を直接通過する方が幹道だったのではないか、松山津から川津、飯山方面への最短路としても結構賑わっていたのではないかと推測されていたのを思い出す。おそらくその道を辿って、夜が明けると新開軍が高屋城の目前にまで迫っていたので、清氏もさぞ驚愕したことであろう。先の「讃岐廻遊記」には続けて「宇多津浦より白峰へ船に而責掛、清氏を亡しける故、定平(中院源少将)も共に亡ひける。」とあって、頼之も海側の搦手から船で一気に押し寄せ“辰の刻”(午前8時頃)から鯨波の声とともに攻め立てたのである。清氏がいくら武勇に長けた武将でも、わずか30騎ほどで千騎の敵の中に挑んでいくのは余りに無謀であり、頼之の知謀を考えるとおそらくそうしないといけないような事情(内部の裏切りや城の放火など)が生じたのかもしれない。自身の実母を高屋城に遣ったのも、事前のそうした工作をするためではなかったかとも思われ、叔母ゆえに“心を和らげ”敵の説得を素直に受け入れた清氏がことさら哀れに思えて仕方がないのである。

 

        図7.新開真行の推定行程(赤実線)と清氏軍の推定行程(赤点線)。(拡大は画像をクリック!)

 

      

図8.各時代の「史跡三十六」の写真。左から(a)大正中期頃、(b)昭和30年頃、(c)昭和45年夏、(d)令和6年1月1日。(拡大は画像をクリック!)

 

  最後の決戦となったされる場所は坂出市林田町北庄司(東梶の東)に「史跡三十六」として保存されている。昭和37,8年頃、幼稚園児だった小生は父の転勤で東梶の借家に住み、時折この地で遊んだのをおぼろげながら憶えている。付近に民家は一軒もなく雄山の山裾まで美しい水田が拡がっていた。夕涼みに両親と出かけると蛍が無数に幻想的に飛んでいたのを今も忘れることができない。「三十六」という名前もインパクト十分で小生が一番早く覚えた数字のひとつでもあった。地元の人は「三十六さん」と呼んでおり細川清氏が家臣36人とともに討死した場所であると伝えているが、条里制の坪名の名残りであるとする見方もある。また古戦場としてだけでなく、「千鳥(鵆)の松」と呼ばれる名松があったことでも知られる。後拾遺和歌集の藤原孝善の和歌「霧晴れぬ あやの川辺に 鳴く千鳥 声にや友の 行くかたを知る」に依るもので(a)の大正時代の絵葉書(小生旧蔵、鎌田共済会郷土博物館に寄贈)に嘗ての威容を偲ぶことができる。人の大きさと比較しても天然記念物級の亭々と聳える見事な老松で、おそらくその美しい姿を捉えた唯一のものではないだろうか?今は小さな記念碑を残すのみである。(b)は「細川清氏と細川頼之」(猪熊信男著 鎌田共済会 昭和34年)の口絵にある景観。すでに「千鳥の松」は枯死してないが、新たに2代目として植えられた松の疎林がいかにも涼しげで懐かしい風情を醸し出している。小生の思い出にあるのもこの光景である。(c)は中学校1年生の時、同級の社会科クラブの面々で雲井御所から、三十六、高屋神社、青海神社まで訪れた際のスナップ。左から山田知之、佐藤孝冶、三野康裕、山田秀男の諸君。他に東原祥子、喜田仁美さん2人のかわいい女子生徒も一緒だった。7月の暑い土曜日の昼下がり、坂出市街から自転車で駆け巡り、父から受け売りの郷土史に関する我が名(迷)調子を、汗だくになりながら我慢強く聞いてくれた彼等の友情は今も忘れない。この後、間もなく史跡に接するように大きな工場が建ち、その景観が著しく損なわれたのは遺憾なことであった。(d)は今年(令和6年)、1月1日の夕方に訪れた時のもの。松食い虫の被害で松林が無くなって久しく、後に植えられた桜の木も随分と大きくなっていた。残念なのは周囲に案内板や駐車場が何もなく、ややもするとミカン畑の中に迷い込んでしまうので注意が必要である。感慨に浸りつつこの写真を撮った直後にけたたましい携帯の警報音が鳴り響いた。M7.6の能登半島地震が発生したのである。その意味でこの地は再び忘れがたい場所となった。

 

高校生の頃、計算紙代わりのチラシの裏に書きなぐった詩が実家の机の中に眠っている(⇒)。

     

   三十六にて

 清氏の夢は破れたが 

梦の松原は永く残った松山の 

河原の松に永く残った

 

青雲は空に流れた

 一筋の光残して

  秋風の空に流れた

 

 今は失われてしまった青春の熱きこころの吐露としてご容赦のほどを・・お粗末さま・・(,, ,,)

 

 

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