【細川頼之、足利義満の管領となる。】
南海治乱記・・・貞治六年丁未十一月三日、将軍義詮公病悩にかかり玉ふに因て細川頼之、之を四国より召上て諸大名を集め頼之に命ぜられて曰、我が病悩死生定がたし、日後天下の執事職を之に授く、高師直が如く相計べし、是に依て武蔵守に任ぜらるると也。頼之、先達て執事職に任ずべき由命ぜらるると云へども辞退して肯ず、然ども大樹、病に因て命じ玉ふ上は異議に及ばず領袖す。将軍家、十二月七日に薨じ玉ひて若君春王殿を輔佐して天下の成敗を司るに少も邪曲の行なく賢慮の多きことは世の言草に遺れり。去る貞治の初に頼之上洛して将軍家に謁し天下の平安を賀し其後密に将監家を諫諭して曰、今世考るに此形勢にては天下の治をなし玉ふと難かるべし。山陰の山名伊豆守、防州の大内介を誘て身方に服し勢州の仁木が叛を諭して帰服せしめば南方は自然に衰べし。我密に誘て服せんと欲す、此こと必ず人に知せ給べからずと約して四国に帰り、山名大内が押領の国々を領知せしむることを赦して帰服せしめ、仁木が先非を赦出仕せしめしかば天下の諸人武家の政道を望て日々に来服す。
此忠義あって私なきことを鎌倉の基氏よく聞玉ひて連々関東より頼之を執事に命せらるべき由を申るるに因て其命有し也。頼之管領として私なき事を計し故に国々の嗷訴も漸々に止て天下自然に冶りぬ。然して諸国の宮方日を追て弱く成、武家方は強く成也。是に於て頼之、南方の敵を退治せんとて土岐・佐々木・山名・一色・赤松を始として諸国の大名廿六人其兵四万余人を以て河内国へ発向す。楠正儀出て戦んかと思量する処に諸国の宮方多は武家に候せしにや屈しけん、六箇所の城を築て兵を込め粮食を積で久きを持て出でず、頼之即飯盛山を圍む。此城は恩地伊勢守六百余人を以て之を守る。頼之、その形勢を察し土岐、佐々木に是を圍せ、山名、赤松を先陣として所々へ発向す。日々に兵を進ること三里にして先陣は卯の上刻に立、頼之は辰の下刻に立ち巳の上刻には陣を固して在々所々を放火し未の刻に兵を入て陣々を固め一夜陣にも搆を厳くせしかば、敵その乗べき隙なくして戦ふことを得ず。頼之、数日の間に八城を築て矢尾の城を陷し中之島に引て山名氏清兄弟三人に諸国の兵一万余人を附て残置き頼之上京す。
其時、山名を聢々(しかじか)と諭して曰、我兵を軽く用ひずして毎年かくの如く奇計を廻さば敵疲れて降参すべし、然らば滅亡疑べからずとて飯盛を圍たる土岐、佐々木も兵を引て還しむ。山名は跡に止居て我陣を固し和泉、河内、大和を時々に侵ければ楠氏漸々に疲て摂州へ乱入べきことを得ず。益て京都へ上るべきことは思も寄らずして京中安堵す。
楠正儀死て後、赤坂の城も陥され和泉国も和田も山名に陥され紀州の宮方も大半山名が手に属す。和州越智十郎を始として武家方に降すれば吉野の皇居は燈を掲べき力もなく予州に土居・得能、石州に三角・益田・佐波・成相、長門に厚東駿河守、九州に菊池氏族、征西将軍宮を輔佐して時を待つ。北国に新田の部類少々ありと云へども其力微にして恐るに足らず。南方滅する時は皆武家に降参すべしと細川武蔵守計定し玉ふと賢良の才と云つべし。頼之、執事たること三年にして天下の大名、咸(ことごと)く執事を尊信す。頼之、我が威を君に譲る計をなす、是世に語り伝る所也。此くの如き忠臣、前世にも鮮(すくな)し、末代に有難かるべし、人臣の亀鑑と云つべし。 (細川頼之、被補任執事職記;巻之一)
太平記・・・・・爰ニ細河右馬頭頼之、其比西国ノ成敗ヲ司テ、敵ヲ亡シ人ヲナツケ、諸事ノ沙汰ノ途轍、少シ先代貞永・貞応ノ旧規ニ相似タリト聞ヘケル間、則天下ノ管領職ニ居ヘシメ、御幼稚ノ若君ヲ輔佐シ奉ルベキト、群議同赴ニ定リシカバ、右馬頭頼之ヲ武蔵守ニ補任シテ、執事職ヲ司ル。外相内徳ゲニモ人ノ云ニ違ハズシカバ、氏族モ是ヲ重ンジ、外様モ彼命ヲ背カズシテ、中夏無為ノ代ニ成テ、目出カリシ事共也。 (細河右馬頭、西国ヨリ上洛ノ事;巻四十終)
図1.臨終の義詮が春王に向かい、頼之を父と思うように諭している場面。(「絵本日本外史」(国立国会図書館デジタルコレクション)より転載)
貞治6年(1367年)秋頃から風邪をこじらせた足利義詮は次第に病状が悪化し回復の見込みがない状態となった。「太平記」には記述がないが、11月25日に頼之を枕頭に呼び寄せて春王(義満)を託し同時に管領(執事)に任じた。「細川管領家御系」によれば頼之に「われ汝のために一子を与へん。」、義満に「汝のために一父を与へん。その教えに違ふなかれ。」と遺言したという(「細川頼之」(小川信 吉川弘文館 昭和47年)。時に義満10才、頼之39才であった。将軍義詮は若い頃は闘鶏に明け暮れ、武将の好き嫌いもはっきりしており総じて凡庸であったと伝えられている。佐々木道誉や赤松則祐ら宿老の意見には抗えずに執事の細川清氏(康安の政変)や斯波高経、義将父子を失脚(貞治の変⇒❡)させたかと思えば、南朝方の先鋒である桃井直常や石堂頼房らを帰順させるなど、その捉えがたい性格に諸将も大いに惑わされたに違いない。オマケに死後は南朝の最大の敵手である楠木正行の横に自分の墓を建てさせるなど(⇒❡)、伝説とは言え今もなお好事家の驚きと興味の対象となっているのも事実である。しかし、後世の史家も評するように、今際の際に義満の執事に頼之を抜擢したことが義詮最大の功績であるというのは大いに肯くことができるのである。これにより南北朝統一への道が大きく開け、幕府に反抗的な国持大名を粛正し、皇室や公家との関係も改善するなど室町幕府240年の安泰が約束されたとも言えよう。「南海治乱記」の記述は頼之の計略によって南朝が次第に衰微していく様子を描いているし、「太平記」も「氏族モ是ヲ重ンジ、外様モ彼命ヲ背カズシテ、中夏無為ノ代ニ成テ、目出カリシ事共也。」と頼之に対する無上の言祝ぎでその全巻を締めくくっている。しかし、頼之が失脚する“康暦の変”までの以後12年間は、彼にとってはまことに多事多難、諸事他端な気苦労の連続でもあった。その主なものを、上記の小川信著「細川頼之」から拾ってみると次のようになる。
貞治6年12月7日:足利義詮逝去。10才の義満に将軍宣下、同時に頼之管領となる。
応安2年1月2日:楠木正儀を北朝に誘降させる。北軍の武将にはこれを快しとしない者も多々あり。
応安3年6月26日:今川貞世(了俊)を鎮西管領とする。
応安3年10月1日:光厳院の遺詔に関して、義満の准母、渋川幸子の意見を排する。
応安3年12月15日:土岐頼康、伊勢守護になれず頼之に不満を抱く。
応安4年2月23日:春屋妙葩を南禅寺住持に推すも拒否、以後、対立を招く。
応安4年5月19日:南軍へ発向の諸将と意見が合わず、管領辞職を義満に申し出るも慰留される。
応安4年12月頃:比叡山や興福寺の要求強く、以後、しばしば朝廷や幕府に強訴し頼之を悩ませる。
応安5年9月24日:隠棲中の春屋妙葩に対する復権の声が大きくなり、管領を辞任しようとしたが義満に慰留される。
応安6年:12月頃:反頼之派の土岐頼康と、頼之派の佐々木高秀の対立が激しくなる。
永和元年8月26日:今川了俊、少弐冬資を謀殺。これを不服として島津氏久、大内弘世が帰国す。
永和元年6月頃:反頼之派の山名時義と頼之派の佐々木高秀の対立が激化する。
永和3年6月頃:反頼之派の巨魁である斯波義将と頼之が越中の国人の喧嘩を巡って一触即発の状態となる。
永和3年秋頃:頼之派の佐々木高秀と赤松義則がそれぞれ所領争いや家督争いの不服から、反頼之派となる。
永和4年8月:頼之派の吉見氏頼は、権勢を張る義満夫人の縁者(本庄宗成)に能登守護を奪われて頼之は面目を失う。
永和4年9月:今川了俊、肥後託麻原の戦いで菊池武朝らに大敗を喫する。
永和4年12月:紀伊の細川業秀、南軍に襲われ退却し罷免、その後、反頼之派の山名義理・氏清兄弟が後任となる。
永和5年2月:義満、反頼之派の斯波義将を大将に土岐頼康らを大和に侵攻させる。鎌倉公方氏満も反頼之派となる。
康暦元年4月14日:斯波義将、佐々木高秀、土岐頼康らが続々と入京して御所巻で、頼之罷免を要求する。
同日、頼之は一族を率いて四国に下国。康暦の政変が勃発。
その主な原因を“かいつまんで”挙げてみると、
1)
佐々木道誉をはじめとする頼之を推した宿老達が相次いで死亡したこと。
2)
有力大名の所領や幕府の被官に関して、頼之の介入に不満を持つ同じ一族が反頼之派になったこと。
3)
夢窓疎石の直弟子で将軍家とも縁の深い春屋妙葩と争い、その一派を弾圧、追放したこと。
4)
将軍家の身内、特に義満の准母である渋川幸子と対立したこと。
5)
南都北嶺の衆徒たちと門跡や神輿のことで頼之と対立、京への強訴や調伏がしばしば行われたこと。
6)
楠木正儀を北朝に誘引したが、却って南朝のスパイ呼ばわりする諸将の声が高くなったこと。
7)
義満が成長して自我を持ち、色々と指図する親代わりの頼之を敬遠するようになったこと。
などが指摘できるだろう。まさに「満室ノ蒼蠅 掃ヘドモ去リ難シ」(⇒❡)の状況だったのである。
それでも、九州の南朝に対して今川了俊を鎮西管領(九州探題)に任命し、前探題の渋川義行が九州まで入ることさえできなかった状況を挽回して太宰府を取り戻し菊池氏や懐良親王を肥後まで押し返すなど著明な功績をあげたことは頼之の面目躍如たるものがある。並行して幕府軍を河内、和泉あたりまで進軍させるとともに楠木正儀を北朝に寝返らせ南北和平の道を探らせるなど、南北朝がそろそろ収束に向かって動き始めたのも頼之の功績として外すことはできないであろう。しかし、康暦の政変の前年(永和4年(1378年))、諸将の足並みが揃わないために養子の細川頼元が紀伊の南軍攻撃に失敗し、代わりに山名氏や反頼之派の巨魁でもある斯波義将が派兵されると、頼之はじめ細川氏に対する非難は頂点に達したのである。その背後には、細川氏(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中・伊予)や山名氏(山城・和泉・紀伊・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・隠岐・美作・備後)など多くの領国を有する強大な守護家、さらには次第に反抗的になる鎌倉公方家を粛清しようとする将軍
義満本人がいたことも忘れてはならないだろう。
図2.将軍 足利義満より管領に任じられる細川頼之。義満の右には頼之を推挙した佐々木道誉が控える。
「絵本太平記」国立国会図書館デジタルコレクションより転載;拡大は画像をクリック!)