【足利義満、菊池氏討伐のため九州下向?】
南海治乱記・・・応安六年癸丑に在り将軍義満公、御歳十六に成玉ふ。或日、仁木三郎左衞門、一色修理進を使として細川武蔵守に仰らるは、我幼少にして父に離れしを汝よく守護して天下の政務を行ひ私なき故に四海の逆波も静り国家無為に帰す。然ども四国の河野が類属、九国の菊池が輩、宮方と号して数国を押領す。殊に豊後の大友と筑後の少弐は世々忠を専にせし者ども也。近年、菊池に追立られて其居を安んぜず、我是を援ずんば武将たる身の恥辱也。我、来年は十七歳に成り既に長年に及り。明春は我直に兵を率し九州に発向すべし。南方は山名氏清を以て退治せしめ楠が千剣破(ちはや)の一城ばかりに成ぬ。又、九州のこと朝暮の心がかり也と仰られければ、武蔵守驚て申さるるは、嗚呼、天下の上将軍に在す哉。御歳十六に成せ玉ふ人のかく義の赴く所、百歳の人に踰玉ふ者哉、誠に唯今思召立玉はば九国を退治し玉ふこと最も易かるべき也と返答あり。即、諸大名を集め評定して来年九国征伐に極り又先づ関東の上杉弾正は東兵六万余人を率して馳登り京都の警衛をなす。仁木義長は伊賀伊勢に発向して北畠の国司と攻戦す。山名氏清三兄弟は河内・和泉・大和三箇国の城々を守て和田・楠を攻詰る。其外の軍将は皆、将軍家の供奉して四国西国に発向す。然処に伊予の河野通直は先非を悔て降参し細川頼之に附庸す故に伊予国へは小笠原信濃守・武田蔵人太郎義賢八千余人を以て発向し土居・得能・金谷・高市を退治すべしと也。
同七年三月廿三日、将軍家京都を立玉ひて九国に赴玉ふ。先陣は山名、赤松に山陰山陽の兵将を加て四万六千余人を以て豊前国に発向す。大内介五千余人を以て其先陣を勤む。細川讃岐守詮春、阿波・土佐・讃岐・淡路の兵卒二万三千余人を以て伊予国に船揃し豊後国へ押渉る。将軍家の供奉には管領武蔵守頼之、其子頼元、仁木、今川、荒川、武田ども六人、尾張義将兄弟三人、畠山氏族三人、土岐、遠山、逸見等の佐々木氏族、東は伊豆国を限り北は越後国を限り諸国の軍兵十万余人、宗徒の大名三十九人前後に供奉す。管領武蔵守より下知四国中国の供領より兵粮を用意し五万余石五百艘の舟を調て運送し諸卒に下行す。誠に我国古今未聞の兵勢也。
菊池も流石の者なれば九州の地に敵を入立じと長門の府に出張して待かけたり。山陰山陽十六箇国の兵七万余人、海陸より攻下り後の国を取切んとす。故に兵を引て筑後国に帰り筑後川を隔て相持ち高良山を城郭とす。大国の諸士将軍家へ降参して九国の郷導をなし豊後国より肥後へ入んとす。将軍家、筑前国に入玉て太宰府に陣を居玉ふ。先鋒の諸軍、筑後川を踰んとす。菊池降を乞て曰、日後(こののち)九州の軍争を止て肥後国より外へ出べからずと固く誓をなす。是に由て肥後国を赦し与へて其外の国々は降参の諸人に頒賜ふ。先づ日向国を伊東に賜ふ。筑前肥前を太宰少弐に賜ふ。長門豊前を大内介に賜ふ。豊後を大友に賜ふ。大国を服従せしめ法令を定て将軍家帰洛ましませば、遠国辺土の諸士までも上洛し義満公へ謁し王城の富栄百倍せり。是、武蔵守頼之よく将軍家を守立奉り君の威を専とし我身を次として天下の事を取計玉ふ故也。頼之管領に在て孤独を恤(あわれ)み微力を救ひ天下の政務は諸大名ともに計ひ諸人に隔心なく親を結しかば天下大小となく帰服して国家冶る。世に頼之なかりせば天下の大乱は静るまじき物をと世人云合りける。 (将軍家、四国九国宮方征伐ノ記;巻之一)
桜雲記・・・・・文中三年(北京応安七年)、九州ノ官軍菊池等戦強シテ既ニ武家ノ軍鈍ク屢味方屈スルト聞テ、大樹義満自ラ出馬センニ豈敵ヲ誅伐踵ヲ施スベカラズト三月諸将ヲ引率シ大軍ヲ以テ筑紫ヘ進発ス。中国九州所々ノ合戦、武家忽ニ勝利ヲ得ル。菊池武略ヲ廻シ闘争スト雖モ毎度利ヲ失フ。宮方豪気衰ヘ爰ニ於テ菊池等請う降テ和平ス。十月義満帰洛。然ドモ官軍ニ属スル菊池等ガ兵士所々ニ城ヲ搆テ堅ク守テ西征将軍ヲ猶仰テ守護ス。時ニ至テ武家大ニ威盛ニシテ南方漸衰ル。今年冬、宗良親王信州大河原ヨリ南朝ヘ来ル。去ル延元ノ比、東ニ下テ遙ニ年月ヲ経テ今爰ニ至テ其見シ人モ失果テ最愁ヲ催シ独懐旧ト云事ヲ詠ズ
同クハトモニ見シ代ノ人モガナ 恋シサヲダニカタリアハセン
先帝在世ノ時、信州ヨリ来ルベシト数度勅有トイヘドモ戦場ニ間ナク遂ニ果サズ。今吉野ニ来テ愁傷モ一方ナラズ又信州に赴ク志有ル時、雁ノ鳴ヲ聞テ
数ナラヌ嘆キニナキテ我ハタダ カヘリワビタル雁ノ一行
(巻之下)
図1.今川氏の系図。清和源氏義康流で足利氏支流。右端近くに貞世(了俊)、左端に義元の名が見える。
(「本朝尊卑分脈」より転載、一部合成、国立国会図書館デジタルコレクションにて公開。拡大は画像をクリック!)
足利義満の管領に就任した細川頼之にとって、まず取り組まなければならない喫緊の課題は南朝勢力の掃討であった。特に後醍醐天皇皇子の懐良親王を征西将軍宮に戴く菊池氏や阿蘇氏は侮り難い勢力で、筑後川の戦いで少弐氏を駆逐して2年後には太宰府を制圧するとともに、貞治3年(正平19年)に伊予を脱出した河野通直(通堯改め)も瀬戸内海の水軍勢力を背景に再び伊予に侵攻し細川氏と直接対峙するまでに回復していたのである。こうした状況を打開するために頼之は応安3年(1370年)、今川貞世(了俊)を九州探題(鎮西管領)に任命する。今川氏は足利氏と祖(源義康)を同じくする清和源氏の名門で探題に任命されるまでは幕府の引付衆頭を務めていた。和歌や連歌などの文学も良くし、そうした文武両道の才能が頼之の目に留まったのだろう。頼之の抜擢は実に的確で、それまで一色氏や渋川氏が攻め倦んでいた九州北部での劣勢を大内氏、大友氏、島津氏の助勢を得て瞬く間に挽回し応安5年には太宰府を奪還するに至ったのである。その後の戦況の推移は「少年菊池武時・武光の勤王」(吉松祐一著 大同館書店 昭和9年刊)を参照に下記に纏めておいた。
北軍は順調に菊池氏の本拠である隈府(熊本県菊池市)近くまで迫るが、永和元年8月に“水島の陣”において了俊が少弐冬資を謀殺したことに立腹した島津氏久が帰国してしまったために一時、進攻が頓挫する。これは了俊が太宰府を含む筑前を直接、勢力下にしようとすることを少弐氏が察知し反抗的な態度を取り始めたために事前に抹殺を謀ったものと推定される。筑前は大陸との交易の玄関口でもありその膨大な利益を独占しようと了俊が思慮し始めたことも大きな原因であったろう。かたや義満も了俊のそうした意図に感づき始め同母弟の詮満を鎮西大将として下向させ制御しようと動いたらしいが、九州や関東に同族を配することは後々、直冬や氏満と同じく幕府に反抗する萌芽とも成りかねず事止みになったらしい。島津氏久や大友親世に去られた了俊の勢いは一時鈍化するが、若き大内義弘が豊前国守護に推することを条件に来援、了俊自身も少弐氏粛清後の筑前経営が軌道に入ることで次第に回復し2年後の永和3年には蜷打の戦いで菊池軍に大勝する。翌年には肥後に深く侵攻しすぎたために託間原の戦いでは逆に大敗を喫してしまうが、蜷打の戦いで多くの将兵を失った南朝の衰退はすでに如何ともしがたく永コ2年に懐良親王が崩御すると以後は良成親王が高田御所に移って隠棲するという凋落著しい状況で南北朝統一を迎えることとなる。
一方の了俊は康暦元年の細川頼之失脚後も16年に亘って九州探題に留まっていたが頼之死後の応永2年に突然、上京を命じられ探題を解任され遠江と駿河の半国守護のみが与えられる。九州平定の功績というには恩賞として甚だ不本意であったに違いない。おまけに後々、今川義元まで守護大名化していくのは兄の範氏の系統(駿河家)で、傍系(遠江家)の貞世は分割統治に対する身内の争いから甥の泰範(範氏の子)による讒言(⇒❡)や応永の乱(⇒❡)に連座する謀叛の疑いまでかけられて守護職を解かれ義満から追討令まで発せられるが各方面からの嘆願でなんとか赦免され以後は遁世して文筆に専念し90歳近くの長寿を全うした。九州探題の更迭は、北九州で勢力を持ちすぎたために義満の有力守護家潰し政策の標的にされたのが最大の原因であったとは思うし、往年の盟友の大内義弘が九州探題の後任や海外貿易を狙って了俊の排除に動いたのも事実で、それを察してか後年の義弘の反乱(応永の乱)の誘いにも積極的には乗らず以後は政治を離れて文学の世界に勤しみ、「難太平記」を始め数々の優れた文学作品を我々に残してくれたのはせめてもの幸いというべきであろう。
延文4年 8月:懐良親王、菊池武光、“筑後川の戦い”(大原の戦い)で少弐頼尚の軍勢を破る。(⇒❡)
延文6年11月:細川頼之、管領となる。
応安2年12月:良成親王、四国征討の途につくが、目的を達せずに還御。
応安3年 9月:今川了俊、九州探題に補せられる。
応安5年10月:了俊ら太宰府を攻撃。菊池軍は高良山に後退す。
応安7年10月:菊池武朝ら、高良山を棄てて肥後隈府に楯籠もる。
永和元年 1月:了俊、肥後山鹿の日の岡に陣す。
5月:懐良親王、征西将軍の座を良成親王に譲る。
8月:今川了俊、水島の陣(熊本県菊池市)にて少弐冬資を謀殺。北軍の島津氏久、憤って帰国す。(⇒❡)
9月:足利義満、弟の満詮を、鎮西大将として下向させる意向を示すも取りやめとなる。
永和3年 1月:良成親王と菊池武朝、今川・大内・大友連合軍と蜷打(佐賀市高木瀬町)で戦うも大敗す。(⇒❡)
永和4年 9月:良成親王と菊池武朝、今川・大内。大友連合軍と託間原(熊本県熊本市)で戦い勝利す。(⇒❡)
康暦元年 4月:康暦の政変で細川頼之、失脚。四国に下野す。
永コ元年 6月:隈府城陥落。良成親王と菊池武朝、「たけ」に潰走。
永コ2年 3月:懐良親王、崩御。
明徳元年 9月:北軍のため宇土城も八代城も陥落し、良成親王は高田御所(熊本県八代市)に隠棲す。
明徳3年10月:南北朝統一なる。
応永2年 8月:今川了俊、讒訴され京都に召し返され、鎮西探題を解任される。
図2.若き良成親王(左)と菊池武朝。(「少年菊池武時・武光の勤王」(吉松祐一 著 大同館書店 昭和9年刊)より転載)
菊池家家紋が一般の“並び鷹の羽”ではなく、亜種の“並び鷹の羽に割り鷹の羽”紋となっているのが面白い。
(国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)
さて、この九州征討に将軍 足利義満が親征したかどうかはかなり疑わしい。若松和三郎氏は「阿波細川氏の研究」の細川詮春の項で、南海治乱記の他にも「菊池伝記」や「阿波志」の記事を列記しながら「『菊池伝記』の記事によれば、将軍義満は同年(応安7年)三月二三日から同年五月五日を過ぎてなお相当の間、中国・九州に西征し、細川頼之が従軍していたことが窺われるが、『足利家官位記』によれば、将軍義満は延文三年(1358年)八月二二日生まれであるから、当時は十六歳で、応安元年(1368年)に元服し将軍職に就任したものの、幕政については管領細川頼之の補佐を必要とする年齢であり、また同記には義満の詳細な事蹟が列記されているが、筑紫征伐の記事はない。」とし、義満新征の事実を否定している。さらに「徳島県史 第二巻」(一宮松次)の「南海通記に、応安七年三月二三日将軍義満京都を出発西征し、菊池氏を討った時、詮春は阿波・讃岐・土佐・淡路の兵二万三千を率いて伊予に船揃いして豊後に押し渡り、戦功を立てた由を載せているが、将軍義満が応安七年に西征したことは、後愚昧記・花営三代記・後深心院記等の当時室町将軍家の記事をくわしく載せた記録のも毫もこれにふれず、将軍の出征も、諸将に命を下したことも書かれていない。恐らくは、後の康応元年(1389年)三月に義満が厳島詣(⇒❡;準備中)したことが混入したのではないかと疑われている。勿論阿波における文献も残っていない。」という見解を掲載している。小生も全く同感である。ただ、香西成資が永く筑前福岡藩の兵法指南として仕官していたこと(1682~1721年)を考え合わせると、その間に漁った九州関係の文献の中に義満親征の記事がありそれを参考にしたとも考えられる。「菊池伝記」(1708年頃成立。⇒❡)もその候補であるが、本項ではそれより古い「桜雲記」(1670年頃までに成立⇒❡)の当該箇所を参考として記載しておいた。
図3.「絵入豪傑詳伝」(鉄壁楼金城 編 赤志忠雅堂 明治27年刊)に見る今川了俊(左)と細川頼之(右)。
(国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)