【足利義満、厳島参拝後、宇多津に逗留。細川頼之と和解。】

 

鹿苑院殿厳島詣記・・六日。御船出でて、牛まど、真井のすなどに至りぬ。誠や此の牛まどといふ所は、昔息気長足媛の御船出の時、怪しかる牛の御船を覆へさんとしけるを、住吉の御神のとりて投げさせ給ひしかば、彼の牛は転び死にけるが島となりて、それより牛まどといふなりけり。牛まろぶと書きて、うしまどと読むとなん聞き侍りしなり。真井のす、つちのとなどといひて、かたき所々今ぞ通らせ給ふ。此の所は潮の彼方此方に行き違ふめり。宇治の早瀬などのやうなり。潮の落合ひて、水泡白く流れ合ひて、潮さい早くのぼれば下るなり。稲舟ならましかば、棹とりあへじかしと見ゆ。つちのとといふは、大づち小づちとて、島山二つ北南にならびたる間を通る瀬戸なるべし。早潮に押し落されじと、舟子ども声を帆にあげて漕ぎなめたり。亥の刻ばかりに、沖の方に当りて、あし火のかげ所々に見ゆ。是なん讃岐の国うた津なりけり。御船ほどなく到りつかせ給ひぬ。

          七日は是に留まらせ給ふ。此の所の形は、北に向ひて渚にそひ、海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北さまに長く見えたり。磯ぎはにつづきて、古なる松が枝などむろの木に並びたり。寺々の軒端ほのかに見ゆ。少し引入つて御ましどころを設けたり。彼の入道心をつくしつつ、手の舞ひ足の踏みどころを知らず。惑ひありくさま、実にもことわりと見ゆ。厳めしき御まうけとて見ゆめれども、心ざしのほどには猶及び侍らぬとや思ひけん、有がたかりき。奉くさぐさいかめしき事なり。人々に賜ふ物も御はかし。鎧、皆よの常ならずみがけるならし。

          八日の朝、御船出なり。此かしこまりとて、武蔵入道親子、是より御供船にまゐれり。海の上三里あまり漕ぎて、さなきといふ所にて、雨風はけしく波いと高かりしかば、此の島わに御とまり有り。碇おろしたる船ども、夜もすがらたゆたふさま、こころ細かりき。

              名にし負はば偖(さて)しもあらで浦風の さなきはなどか烈しかるらん

                                ・・・・・・・・・・・・・・・

          廿二日。卯の時に御船出、あふとといふ瀬戸あり。追風はげしく波高かりしかば、船どもの帆をおろして漕ぎ重ねしかば、手棹どもきびしく取りて漕ぎ過ぎたり。此のところは島一つ南方にさし出でて、北の山々の間の細き所を押し回す所なり。海賊とて白波の立ち所なりとぞ。鞆の浦の南にあたりて、宇治は□りといふ島々あり。箱の岬といふも侍り。

              へだて行く八重の潮路の浦しまや 箱のみさきの名こそしるらめ

           讃岐の国にもなりぬ。やつまといふ島輪あり。此の島は人の家のつまむきに似たる故に云ふとなり。二面といふ小島も侍り。松が枝など老ひたり。などや兒手柏のなかるらんと覚ゆ。追風殊の外に烈しくて、ただ津といひて、歌津より南なる浦に、御船を寄せて上らせ給ふ。御迎へとて、馬はあれども、徒歩にて渚の干潟にそひて歩ませ給ふて、聊かなる山路をこえさせ給ひて、歌津に又入らせ給ふ。二里ばかり歩ませ給ひけり。酉の時ばかりにぞ到らせ給ひし。此の西北の方に見えたる山は、彼の讃岐の院のおはしましけむ、松山、白峰など云ふめり。

              流れけんむなしき舟の名ごりとて ただ松山のかげぞふりぬる

          廿三日は此処にとまり給ひて、武蔵入道召されて、遙かに御物語りありけるとかや。何事にか有りけん、涙をおさへて罷り出でけると聞ゆ。

          廿四日。出で給ひて、彼の八島といふ方など見渡して、備前の国よもぎ島といふ所になりぬ。

                                ・・・・・・・・・・・・・・・

                     (「紀行文集 続々」(続帝国文庫;第37遍 博文館 明治34年)、国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)

 

 

図1.足利義満一行の讃岐付近行程推定図。(原図は Yahoo マップ。拡大は画像をクリック!)

 

            九州の南朝勢力も今川了俊によってあらかた始末がつくと、足利将軍自らが出座してその威厳を示すとともに古くは祖父の尊氏が菊池勢を筑前の多々良浜で破った吉事(⇒)にあやかって象徴的に九州まで遠征し菊池氏に最終的な降伏の引導を渡すことを目的に、康応元年(1389年)3月に大船団を仕立てて兵庫の浦から西に下った。付き従う家臣は細川頼元、斯波義稙(義将の弟)、畠山基国など三管領家を始め、今川了俊を筆頭に養子の今川仲秋や伊勢貞継(政所執事)、日野重光(将軍室の弟)、古山珠阿(同朋衆)、士仏(将軍付医師)はては義満の寵愛児に至るまで百余艘、船手まで含めると優に数百人を超す、まさに“動く室町幕府”とも言うべき一大デモンストレーションであった。この旅のもうひとつの大きな目的は讃岐の宇多津に立ち寄って康暦の政変で追討令を出した細川頼之に面会し直接に赦免することであった。政変が起こってすでに10年の歳月が流れ追討令は細川頼元の赦免運動で早い時期に解除されたが、未だ頼之本人に対する赦免は行われていなかったからである。このときの紀行は今川了俊の「鹿苑院殿嚴島詣記」に「土佐日記」風の美しい仮名文で詳しく語られている(⇒)。宇多津町文化財保護協会の「細川頼之顕彰」(⇒)には全文の口語訳も掲載されているので、ぜひその美しさを堪能していただきたい。ここでは宇多津付近の旅の様子について少し考えてみたい。

            まず3月6日に厳島への行路で、備前の牛窓から槌の戸(大槌・小槌)、備讃瀬戸を通りそのまま宇多津に到着し翌日にかけて滞在している。「此の所の形は、北に向ひて渚にそひ、海人の家々ならべり。ひむがしは野山のおのへ北さまに長く見えたり。磯ぎはにつづきて、古なる松が枝などむろの木に並びたり。寺々の軒端ほのかに見ゆ。少し引入つて御ましどころを設けたり。」という表現で、大束川河口に沿って集落が形成され、東には角山から茶臼山、聖通寺山と続く嫋やかな稜線と老松の生い茂る渚の美しい様が眼前にありありと蘇ってくるようだ。また当時、道場寺と呼ばれていた郷照寺を中心にすでに寺町が形成されていた様子も偲ばれる。「香川県城館跡詳細分布調査報告」(香川県教育委員会編 2003年)などによると頼之の居館は寺町のもっとも奥まった位置、現在の円通寺と多聞寺付近にあったと推定されているが未だ確定されている訳ではなく、郷照寺東側の南骼宸竦シ側の本妙寺付近を推定する向きもある。図2.は小生が高校生の頃、今から50年ほど前に円通寺と多聞寺を訪れた際の写真である。円通寺には“頼之お手植えの黒松”“と呼ばれる枝を張った巨木が本堂前の境内を占有していたが、松食い虫の被害に遭い今は現存しない。多聞寺門前にも「頼之公守護所跡」という立て看板が誇らしく円通寺と覇を争うように掲げられていた。かと言って、だからここだという確証はないのだがあの巨大な黒松の威厳には、頼之が将軍や諸侯を前に甲斐甲斐しく接待に右往左往している当時を語りかけてくるようなインパクトは十分にあった。枯死して2002年に伐採されてしまったのが惜しまれてならない。(写真は冬休みに実家から持って帰る予定です。しばらくご猶予を・・<(_ _)>

            18日には頼之、頼元親子が船に同乗して厳島へと向かった。無事に参拝を済ませ周防を過ぎ長門に入ると春の嵐が吹き荒れて、船は遅々として進まず身に危険さえ感じるようになったので了俊らの考えに従ってここで引き返すこととなった。備後では守護の山名時煕がご機嫌伺いに参上したが父の時義は病と称して伺候しなかった(今日備後より山名宮内少輔(時煕)まゐれり。御のぼりに尾の道を御覧ぜさすべきよし申す。父の左京大夫(時義)は病によりて参らず)。このことが義満の機嫌を損ね二年後の“明徳の乱”の伏線になったとも考えられるが、時義はこの年に病死しているので、あながち仮病でもなかったのだろう。しかし、病を押してでも“お目もじ”を果たせば義満も感激してあるいは乱を防げたのかもしれないのだが・・

            22日に尾道を発し阿伏兎の瀬戸を通って再度、宇多津に逗留すべく一路、讃岐へと向かった。やつま(高見島か?)や二面島を過ぎ激しい追い風を受けながら多度津に上陸した。ここから2里ほど歩いて青野山の南を通り頼之の居館に入った。当時の海岸線は現在よりだいぶ南にあって、今津、津森あたりから津ノ郷方面に向かい吉岡から鍋屋、十楽寺と少し山路を越えて居館に至ったのであろう。翌日にかけて滞在し夜は頼之を召して歓談したが、昔物語に頼之が涙を抑えて退出する様子を了俊が伝え聞いて記載している。しかし、行きも帰りも宇多津に滞在して頼之と歓談したのは単に昔を懐かしむためだけではなく、すでに義満には山名氏を討つ決意がありそれを披露して頼之に協力を求めたのではないかと小生は推測している。そのために翌年には備後国守護に頼之を任命している。さらに不和となっていた斯波義将から管領職を頼之に与えるので急ぎ上京するよう催促したのだろう。さすがに高齢で出家している頼之にとって管領受諾は無理と判断し代わりに養子の頼元を推薦している。こうした善後策を夜を徹してふたりで練ったのかもしれない。おそらく強大な山名氏を討つことは将軍家にとっても乾坤一擲の大勝負となるだけに、親代わりの自分にすべてを打ち明けて頼り切る昔の義満に戻ったことに感じ入って頼之も感涙に咽いだのだろう。将軍が家臣の、それも京からはるかに離れた居館にはるばる出向いて直接赦免するという前代未聞のアピールは見事に成功し、以後の決意も新たに満足して京に還って行ったのであった。こうして一度ならず二度までも現役の足利将軍の御座所となった宇多津の地は、まことに栄誉にして今なお郷土の誇りというべきであろう。

 

     

図3.出家して禅榻に臥す細川頼之(左)と、厳島神社の足利義満(右)。対談するのは細川頼元か今川仲秋くらいであろうか?・・

                        (「少年日本歴史読本 第14編(足利義満」(博文館 大正2年)より転載、国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)

 

            ちなみに小生は、帰途に讃岐へと向う船上での「やつまといふ島輪あり。此の島は人の家のつまむきに似たる故に云ふとなり。二面といふ小島も侍り。松が枝など老ひたり。などや兒手柏のなかるらんと覚ゆ。」という一文に興味を持っている。二面島は粟島(香川県三豊市詫間町)の北にあって別名“蕎麦替島”ともいい、このあたりは早瀬で岩礁も多く難破する船が後を絶たなかった。元々、粟島に属していたが難破の救難費用が嵩むので、江戸時代に島を高見島に譲った。高見島ではタダでは悪いというので、毎年、一升の蕎麦を粟島に送ることを約束した、それ以来、蕎麦替島と呼ばれるようになったと伝えられる。「やつま」というのはおそらく「やしま」と同じく形が屋根または妻側(家の側面)に似ているのでそう名付けられたのであろう。しかし、調べた範囲内では、このあたりに「やつま」と名のつく島や岩礁を見つけることはできなかった。形だけからすると、多度津方面から見る高見島はまことに均整の取れた美しい富士形の容姿を誇っており、塩飽諸島を行き来する船にとって最適のランドマークというに相応しい。そこでふと思い出したのが「讃岐国風土記」の一文であった。“「讃岐国屋島北去百歩許有島。名阿波島。(「仙覚萬葉抄」)(読み下し:讃岐国屋島の北に去ること百歩許に島あり。阿波島と名づく)”(⇒)。中学生の頃、学校の図書室で「日本古典文学大系 風土記」(岩波書店)を見て、「え!?・・讃岐国はたったこれだけ?」とおおいに失望したのを今も憶えている。「讃岐国風土記」の全文はすでに失われており、他書(仙覚萬葉抄)に引用されるわずかな箇所が残っているに過ぎず、おそらくこの一文も前後に続く何かの物語の断片なのだろう。むしろ「播磨国風土記」の方がよっぽど讃岐に関する事柄が多いのにも意外に思ったものだが、現在の屋島の北には「阿波島」という島はなく以前からその解釈には苦しみ、多様な説が存在しているのも事実である(中西靖忠など⇒)。小生も、「阿波島」を今の「粟島」と考えれば、「やつま」と二面島、「さなぎ」などの組み合わせからこの「屋島」が、今の高松の「屋島」ではなく、多度津付近にも「屋島」あるいは「やつま」と呼ばれる島(おそらく高見島)があったのかもしれないとある種の妄想を抱くのである。「鹿苑院殿厳島詣記」では、槌の戸で頼之と別れた後で現在の屋島を指して「彼の八島といふ方など見渡して・・」とあるが塩飽諸島あたりからは槌の戸に長く突き出した五色台の陰に隠れて高松の八島(屋島)は望むことができない。このことからも「やつま」と「八島」は全く別の島だと愚考する次第。また、諸兄のご意見ご教示を賜れば幸いである。

 

図4.海岸寺(多度津町)付近から見る高見島。実際の目にはもっと大きく見える。(原図はgoogle map;street view

 

 

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