【南海治乱記】・・・永正四年六月、細川政元、家人の為に害せられ玉ふ。是、一朝の事に非ず。政元飯綱の法を信じ婦女を帯せず、少童を愛して悋気深し。其頃、寵愛の上方あり、是に悋気あって稍模すれば人を損はんとす。爰に右筆に戸倉次郎と云ふ者あり。罪なくして疑を被り其適(あたり)を受くる事あり。是に由て逆心を含む。其六月廿三日、愛宕山に上り潔斎の為に浴室に在り。戸倉その隙を窺ひ政元を弑し行方知れず迯げ去る。是に於て洛中騒動して手足を措く所なし。諸将みな将軍家に馳集るものあり、我が宅兵を搆へるものあり、何の分と云ふ事もなく京中物騒也。
香西備中守元継、管領の館を守りて将軍家に達し細川氏族中に書を送りて曰く、政元不慮の害に遭ひ玉ふ事、是非に及ばざる事也。九郎を世嗣に立て玉はん事は政元の本志也。各々同意し玉ふべき由を述ぶと云へども阿波屋形を恐れて同意の人なし。剰さへ政元の害に遭ひ玉ふことは元継が所行也と風聞す。是、細川氏族中、九郎を退けて六郎を立てんと欲する故に罪を元継に被しむる者也。元継、素より知謀威力ともに天下の大事をなすに足らずと云へども、身命を政元の恩に報じ忠を九郎澄之に尽して嵐山に城を築き、丹波の粮道を利し、京に在り合ふ従兵三百余人を以て楯こもり、細川氏族中に書を通じて事の仔細を述べ、我が領中に徇(ふ)れて兵を集むと云へども俄の事なれば馳来る者なし。
阿波屋形義春、是を聞いて六郎澄元に三千余人を附けて三好筑前守長輝を兵将とし時日を移さず指上す。三好長輝、七月十日に京着して嵐山の形勢を聞き大兵を挙げ発向す。城中孤軍にして相対せずと云へども三百余人を以て打出て、百々の橋を中ばにして攻戦ひ五日まで勝負一決せず。彼我の兵、死を致もの其数を知らず。元継死戦を設けて従兵を揃へ橋を踰(こ)へて打出て三好が陣に伐入らんとす。戦酣(たけなわ)にして勝敗いまだ決定せざるに元継矢に当って死す。三好が兵士、是を見て競ひ進んで攻戦ひ城兵若干戦死す。細川九郎澄之、従兵二百余人を以て相戦ふ、力竭きて自殺す。
三好筑前守即六郎澄元を立て政元の家督として管領に任ず。于時に歳十六也。筑前守其後見として王畿諸州に威を振ふ。元継、君恩を受けて死を致すは常の事なれども、無罪にして逆心の名を得るこそ本意なけれ、将軍家并に諸司、此実否は知り玉ふ事なけれども阿波の屋形に阿(おもねり)て其是非を論ずる人なし。元継が讃州の所領、綾の北條は香川肥前守が二子、香川民部少輔に賜ひて西庄の城に入り、丹波の所知も夫々に領主を附けらる。此騒動六月廿四日に発して同八月三日に静まる。
同年の冬、阿州の兵士讃岐植田氏とともに阿波屋形の命を受けて、大兵を揚げ寒川左馬允が居城、東長尾昼寝の城に攻寄る。城堅固にして年を踰へて攻れども陥らず。是、寒川氏去年政元の命に因て上洛し、阿讃の境拒禦の備を奉て守をなす故に、香西元継が与力と称して是を攻む。然れども京都に変出来て阿州の兵馳上ると聞へしかば寒川表の兵引去る。