【南海治乱記】・・・大永六年冬、十河右京進景滋と寒川太郎元政と数年の諍論止ずして兵を搆る由聞ければ、阿波の三好筑前入道喜雲(元長;海雲の誤り)、援助として三好下野守に兵士百余人、步卒五百余人、厠養樵汲とも千有余人を以て十河に遣しむ。其兵、阿波三好郡より讃岐の三木郡津柳に到り寒川郡に入んとす。比(ころ)は十二月四日、寒中に行路遅滞し夕陽に及ぬれば行兵を留て軍食を調しめんとす。
寒川元政、兼て阿州へ間(しのび)を遣し敵の来るを知て、其の路程を挍(かんが)へ地利を察し津柳に至て兵を潜かにし敵を待つ。阿州の兵、これを察せずして止んとする処に寒川の兵、急に発て其陣を襲ふ。阿波の兵、挑み戦ふと云へども倉卒に敵を受け、備設に及ばす混乱す。寒川氏又地利を得て、間道を廻り敵の後ろに出て鬨の声を発す。阿波の兵、前後に敵を受けて大に乱れ植田の方へ敗績す。寒川の兵将、額孫右衛門、神前雅楽助、前後の先鋒として武勇を顕し首級を得る事、若干也。是を津柳合戦と云也。
寒川氏、能く計て勝を制すと云へども三谷、神内、十河の剛敵に阿波の兵加りぬれば、後難を慮て我が婦女嬰児を昼寝、虎丸両城に入れ、壮男の兵を撰び陳列をなし部伍を整て要地を守る。三好氏、十河の城に来り三谷、神内、十河と軍議して長尾表に発向す。寒川、少兵なれば平陸の戦に相対することを得ずして昼寝の城に引入る。植田氏、三好氏、寒川に入て民屋に放火し暴行をなして還る。
讃州西方の兵将、香川山城守、香西豊前守、間諜を通じて曰く、植田衆、阿波の三好を引出し寒川を亡んとす。寒川破て、東方、阿波に属せば西方も立つべからず。大内家を通じて援兵を乞ふ。植田氏を退治すべし、先ず両家の兵を出し寒川を援ずんば有べからずとて、西方五千余人を揚て一宮に来陣す。阿州の兵、是を聞て、寒川氏を攻ば国中の取合い起るべし。上方の大事の前に、国取合い起るときは阿波の国も立べからず。必ず戦を止むべしとて兵を引て還る。