【南海治乱記】・・・天文元年秋、十河左衛門督一存、兵を挙て寒川に入んとす。一存は三好筑前入道海雲が子息也。十河右京進が養子として其家を継ぐ也。前代より寒川氏と鉾楯をなす事久し。爰に寒川氏が旧臣に鴨部と云者あり。其子、神内左衛門と云い、其弟を源次と云ふ。源次は十河の家に来て幼少の時より奉仕す。一存、其時、源次を呼で曰く、汝は寒川譜代の家臣也。今度、戦に及ばば譜代の古主に向て弓を挽き、兄に向て矢を放つ條、是忍がたき事也。今、汝の身の暇を遣はすべし。故郷へ帰り兄弟ともに同く戦場に趣くべしと也。源次、肯ずして涙を流し、歎しき君命を奉るものかな、生命が義理による、吾が身命を十河の君の恩の為に奉る、何の弐心を持んや、今、君に疑ぬるこそ浅ましけれ、明日にも戦に及ばば死を以て報べしとて涙を押えて佗事なし。一存又曰く、汝が忠信、我これを知る、然れども兄弟両陣にある事は軍律に凶也。押て故郷に帰べしと制詞(さと)す。源次申けるは、心中の誠を伸と云へども軍制に違とあれば力なし、身の暇を賜て自殺せんと云ふ。一存猶許し給はずして漸くになだめて服心せしむ。源次が曰く、我れ故郷に還り兄弟一所となり戦場に向はば君に太刀打ものは我兄弟なり、盃を給んと云ふ。一存、悦で盃を給し主従の余波(なごり)を惜み、涙を押て鴨部に還る。この源次は、源平の戦に藤戸に於て名を顕したる鴨部源次が後胤なり。世々勇士の名を失はず。
十河一存、少兵を挙て寒川に押入り長尾表に合戦す。先鋒とりどりに攻戦ふ処に、鴨部神内左衛門、其弟源次は、我が劣らぬ勇士八人、従者五十人ばかりを以て一存の本陣へ一文字に突かかり、神内左衛門、鎗を以て一存を突く。一存、ひよりて外す処に左の鞴をこめて腕を抜通す。一存、太刀を以て鎗を伐折り神内を撃つ。源次、七八人に疵を被しめ手の下に三人伐殺て戦死す。一存、戦勝て凱旋し、右の鎗疵に塩を押込め藤葛を破てかんぎ巻にし血を留て帰陣す。其後、其の手疵を見たる者なし。或時、風呂に入玉ふ時、白布巾にて腕を巻て入ぬ、是見たる計也。是よりして世人、鬼十河と云也。
讃州の諸将、飛檄を以て阿波屋形并に管領晴元に達す。晴元、以ての外に驚玉ひて近士を讃州の諸将に遣し、今、天下大事の前に於て、私の弓矢を取事、以ての外の凶事なり、十河の事は三好氏族を以て禁止せしむべし、寒川方へは国傍輩の各として申含べしとて十河、寒川和親をなさしむ。寒川と安富も調和せしむ。其比、晴元は勝瑞に在て諸州の方人を招き上洛を計る時也。
晴元より寒川に賜る書
出張之事、来春、早速為す可く候。其の意を得て忠節を抽(ぬきんで)らる可きの段、肝要に候。就中、十河又四郎儀、相替わらず候段、感重に候。向後、弥々入魂(昵懇に同じ)に於ては喜入る可く候。猶、又四郎にも申す可く候。謹言。
十二月十九日 晴元(花押)
寒川太郎殿へと也。寒川太郎は丹後守元政也。又四郎は十河左衛門一存也。(讃州十河一存、寒川太郎と戦ふの記;巻之四)