南海治乱記・・・土佐長曽我部氏は、其祖秦河勝より出つ。後裔土州曽我部に住する故に曽我部の姓を賜ふ。古平相国の時、幡多、高岡二郡を小松重盛公に賜ふ。故に幡多の住人枚田太郎俊遠、高岡の住人蓮池権守家綱は小松殿の臣たり。治承四年に頼朝東国に起りしかば、当国吾川郡の流人、源希義をを誅すべき由の命を承て枚田蓮池、兵を挙げ逐てこれを殺す。其時、香美郡司、夜須七郎行宗は希義の方人たり。其後、頼朝公より伊豆右衛門尉有国を遣はして枚田蓮池を追討し玉ふ。夜須七郎を以て当国の仕承とす。是に由て香美長岡二郡を賜て行宗が後裔世々相持つ。行宗も亦同郡、曽我部氏を臣として二郡の事を計しむ。香美郡に居するを香曽我部とし、長岡郡に居するを長曽我部とす。行宗は鎌倉殿の仕承として蓮池に居す。世人蓮池殿と称す。世々の後、夜須の家衰へ両曽我部として香美長岡二郡の権を掌る。夜須氏、其権を奪んと欲す。天文年中に長曽我部宮内少輔元秀と云者あり。本主夜須氏を弑す。隣郡の旗頭、本山、吉良、大比羅三人として幡多の一條殿へ訴へ長曽我部氏を攻殺し氏族悉く殲つくす。其時、六歳になる小児を家臣近藤某と云ふ者調略して連出し幡多郡へ行き、一條殿へ奉り此小児成人の後、長曽我部が氏を立て賜ふべき由を申て涕泣す。一條殿、憐憫を加へて育し玉へば、其才容儀ともに人に勝れたり。

           一條殿、昵近せしめ玉ひて成人の後、時々本山、吉良、大比羅に申し宥て長曽我部が旧領を千王丸に還附せられける。其子、後に宮内少輔元家(国親)と云。元家に男子四人女子四人あり。一男宮内大輔元親、二男吉良左兵衛親貞、三男香曽我部左近大夫親安、四男彌九郎(是、病に因りて上洛し帰路の時、阿州海部氏に殺さる)。兄弟三人ともに英雄也。宮内少輔、日来、本山、吉良、大比羅を父の怨と思含んで一度は是を報んと欲す。一條殿、これを聞玉ひて彼が心を和せんが為に本山梅慶が嫡子、式部少輔を宮内少輔が婿として一女を嫁し親交をなさしむ。宮内少輔、縁者に成ては猶然るべき序も出来ぬべき物をと思ひ辞退に及ばずして領掌す。更に長曽我部氏が害心止ず。夫れ国家の禍は君の私より出つ。先年、長曽我部氏が旗頭夜須氏を害するは逆心也。本山、吉良が其罪を討は朋友の道也。一條殿、これを許して討しむるは其所以ある也。長曽我部氏が子を育して成長せしむるは国禍乱の種子を植る也。殊に旧領を賜に於てをや。一條家の滅亡自ら取るのみ也。  (長曽我部氏由来記;巻之九)

 

 

          細川政元の頃、被官の長宗我部兼序はその勢力の元で横暴を繰り返していた。ところが永正の錯乱で政元が暗殺されると周囲の領主の反発で岡豊を攻められ自害に追い込まれたという()。その一子(千王丸あるいは千雄丸、後の国親)は幡多の一條房基の庇護で養育され、成長に及んで長岡郡も返還されたという。過去の禍根を流す意味で、房基の仲介で本山氏と姻戚となるも、国親は親の仇怨を忘れず、遂に本山氏の長浜城を攻撃するに至る、というのが一般の長宗我部氏創業の記である。そのあたりは「長元物語」に詳しく記載されている。憐愍の情で一人の子供を助けたために、一條家がその子によって滅びることになる下りは、なんとなく源頼朝やジンギスハンの一代記を彷彿とさせ面白い。

 

 

 

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