【南海治乱記】・・・天文二十一年壬子の正月、細川晴元、江州堅田城を出奔して行方しらず成。三好長慶と将軍家、御和平あって京都へ還り玉長慶天下を掌に入玉ふと聞しかば、阿波の執事、三好豊前守義賢入道実休も屋形を破て、我阿波の守護と成ことを欲す。其の驕慢の色、外に顕はる。屋形素より盲昧にして人を知り玉はず。賢は退ぞき佞は進む故に奉行、頭人に忠を存する者なし。奉行人、四宮与吉兵衛と云者あり。是を頼もしく思ひ玉ひて、実休が不忠を告て是を謀り討ん事を密談す。与吉兵衛、思へらく屋形の憤りはさる事なれども、今、実休を殺さば国中の三好家起て屋形を攻し。讃岐の十河一存、速に来らば細川の者とて手に立つ者有るからず、然れども諫なりとも屋形用ひられずして我が身に難を受くべし、とかく実休に一身せばやと思ひ、其の事領承しながら窃かに実休に告ぐ。

           屋形は是を知らずして謀定め実休召す。実休心得て行かずして曰く、我少し病あり、癒て後に参らんと辞す。故に事、延引す。実休しばらくも時を移すべからずと思ひ、三好方の兵将に使を馳て兵を催す。屋形、御用意のことあり、何の日、何の時、勝瑞へ馳参ずべし、其の刻限を違ふべからずと触れ送る。兵士、何事と云ふ子細を知して馳参ずる者三千余人。屋形は此の事、夢にも知して其日は龍音寺に入て遊興あり。実休、何事となく龍音寺を囲み鬨を上る。屋形をどろきて見性寺へ迯入り加勢の体を見れども、皆三好が旗に属して屋形の身方に参る者なし。天文二十一年壬子八月十九日、細川讃岐守持隆自殺し玉。家人、星合右衛門兵衛、土佐の蓮池清輔二人同死す。昨日までは細川譜代の国民なれ共、今日は引替て三好家の分国となる。此年、豊前守義賢廿七歳にて剃髪して物外軒実休と云ふ。即ち勝瑞の屋形に住して阿波の守護となり、国中の諸将を旗下に属て長慶の命を奉行す

           実休、君を弑する名を厭ひけるに、持隆逆謀の罪を揚て国人に知しめ、其の妾腹の男子、掃部頭直文(真之)を立て屋形と号し勝瑞に置く。然れども屋形と云ふ名ばかりにて国政には預らしめず。其妾、又、実休に寵せられて男子二人を産む。一男は彦次郎長治、二男は十河孫六存保也。細川掃部頭と同腹也。扨て、又、四宮与吉兵衛は細川屋形へは逆心の者なれども三好家に帰り忠なる故に恩赦を行れて加増の地を賜る。年経て後、藤崎甚五郎と云ふ者に命じて之を誅せしむ。其の親類身近き者は佗国へ浪人し、遠属縁者までも空おそろしく成て薄氷を踏むが如し。不忠の罪なりと人沙汰せしと也。讃岐守の妻は、防州大内介義隆の女兄也。尼に成て故郷に帰り、仏道に入り其の忠を行。人、これを感すとふ聞ゆ。 (阿波屋形讃岐守、自殺の記;巻之六)

 

 

 

 

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