南海治乱記・・・香美郡は香曽我部四千貫の郡司也。元親、兵を挙て攻入る。香曽我部、和を乞ふて曰く、我に男子なし、女子一人あり。元親の弟、新右衛門親泰を婿養子として家名を継しめんと也。元親、領掌して和信相調へ即、親泰に世事を譲り隠居す。是より親泰を香曽我部と称する也。当郡の国人士は野中、姫倉、小野、国吉、馬場、荻野、五百倉、上村、野田、甫喜(山)、山川、伊尾、豊永等也。前々より長曽我部家へ縁続きなる故に別事なし。 (香美郡兵役記;巻之九)
長元物語・・・・香我美郡には香宗我部殿四千貫、是の郡の守護と言ふ。此先祖は鎌倉権五郎景正、子孫この郡にて知行拝領有りて下りたまふ由申伝へたり。元親公、弓矢御取出の節は、香宗我部殿に御男子なく、女子一人有りて、元親公御舎弟、三男左近太夫殿を御養子婿になさる。左近太夫殿名乗は親泰と言ふ。当郡の侍、野中、姫倉、小野、国吉、馬場、荻野、五百倉、上村、野田、甫喜山、山川、伊尾木、豊永、右の衆、前より縁者の続を以て、後々は長宗我部殿の家老に成る衆も有る所、件の如し。 (乾巻)
香宗我部氏は、長宗我部氏と同じ秦氏で、長岡郡を領した分族を長宗我部、香我美郡を領したそれを香宗我部と名乗ったと教わったが、実際は武田氏と同じ義光流清和源氏であるらしく、家紋も武田と同じ割菱紋である。両族は隣郡同士でもあり、和親したり闘争したりと良きライバルであったが、元親の弟、親泰が婿養子となってからは、長宗我部一門として四国平定に活躍した。特に阿波侵攻時は、いち早く郡代として阿波南二郡(海部・那賀郡)を支配、中富川の決戦でもその勇猛ぶりを発揮する。文禄の役で、朝鮮に赴く途中で急逝した。享年51歳。彼の早すぎる死は、その後の長宗我部氏の衰運を早めたと言われる。