南海治乱記・・・三好長慶、兄弟多き中に皆一品づつ備りて名将也。長慶は知謀勇才を兼て天下を制すべき器也。豊前入道実休は国家を謀るべき謀将也。十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将也。安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将也。兄弟四人一手づつ生れつきたる故に天下の乱を救て暫く静謐す。永禄の始に長慶、老衰に及んで天下の政務を左京大夫義継に譲て中の島に隠居す。冬康、其老衰し玉ふを悲嘆し保養の事を諫めらる。或年の十月に淡州より大坂中の島へ松虫籠を送らる。夏虫は弱き物なれども養を能くする時は寒中まで存する也。人は四時を送て寿ながき者なれば、養を能せば長命ならんと諌められしかば長慶も感悦し玉ふと聞ゆ。忠と云つべし。

          冬康の仁徳は閭巷の言種に遺る事多し。乱世に生て鉾を携て暇なき中に書を放さず、和漢の故実を試て道義を守り玉ふ事、世に希しき人才也。天下乱世にして人民利を諍ひ、道を失て虎狼の業をなす事を憂て読る歌

             往古を記せる文の蹟も踈し さらずば下る世とは知らまじ

          誠に感心をなすべき言詞也。かかる善心の名君なれども世澆季に及んで猛悪寰中に蔓る故に長慶卒し玉ひて後、三好氏族集議して左京大夫并阿波屋形に讒して曰く、冬康、天下の執事たるべき望ある故に阿波淡路の兵将を懐け諸国に睦をなし、義継長治をさみし申の間、不日に謀を運らし給はずば後難免るべからずと相通ず故に、義継長治より大兵を催し、淡州由良の城を攻る。冬康、是を聞て、愚昧の者共の悪業なれば諭すとも分別すべからず、三好家の滅亡近年の中にあるべし、先祖累代の勲功をなして興起せし当家を、愚昧の氏族どもが集りて破滅するこそ無念なれ、さらば黄泉の道に出立べし。今生の思出に連歌を催さんとて表八句の連歌あり。

其七句目、芦に薄の交る一村(ひとむれ)、八句目、古沼の浅き方より野となりて 

冬康、此句を附玉ひて大に悦び、さても快し、是迄也、いざ打て出よとて城門を開て突出し遂に戦死し玉ふと聞ゑける。三好家滅亡の瑞相にや、智能の子弟生ずして愚蒙の氏族充満し、我が門葉の鋭たるべき冬康を失なはせけるこそ浅ましけれ。讃州の安富筑前守、淡州の役に死すと家の記にあるも此時の事なるべき也。国遠くして人伝に聞へければ其実を洩するこそ本意なけれ、後時、よく知る人を待って記すべき也。

 

 

安宅冬康の死は、永禄七年五月九日に、兄の長慶に飯盛城へ呼び出されて謀殺されたことになっている。謀反の企みが発覚したとも、老衰した長慶を籠絡して松永弾正が仕懸けた讒言の罠に嵌まったとも言われている。これらは「言継卿記」や「細川両家記」が伝えるところであるが、一方で、「南海治乱記」のように淡路での戦死説や、「三好別記」の芥川城での成敗説など、未だ明確でないのが正直なところである。「古沼の・・」の連歌も、久米田での実休戦死の日に、飯盛城での連歌会で三好長慶が詠んだものとされているし、冬康の鈴虫の逸話も、長慶の病を労る意味ではなく、政権が絶頂の頃に長慶の奢りを諫める意味で送ったともいう。滅んだ者の記憶は、香西成資の頃には既に渺茫の彼方であったのかもしれないが、治乱記の記載が正しいとすれば、四兄弟唯一人の生き残りで、阿波と摂津を結ぶ要路を押さえる文武両道に優れた冬康の存在は、若い長治や義継にとって邪魔な存在だけであったかもしれず、その意味では実兄や松永に謀殺されるよりは、紫雲と同じように華々しく淡路の戦場で散ったものと小生は信じたい。

 

 

 

  

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