南海治乱記・・・永禄八年五月十九日、松永弾正少弼が籌策を以て公方義輝公を弑し奉る。其所以は三好修理大夫長慶、老衰に及んで嗣子筑前守義長卒去し十河一存の男義詰(義継)を養子として世務を譲り、永禄三年に江州飯盛山の城を渡し、其身は摂州中嶋の城に隠居す。松永弾正即ち義詰の執事として天下の柄を取る。長慶は永禄六年に中の島の城に於て卒す。然れども天下の乱世を救ん為に其の死を隠て世上に披露せず。弾正、猶以て自己の権を専として将軍家を蔑如(ないがしろ)にし三好家を軽んず。公方、これを憤り玉ひて松永、三好を退けん事を謀り、江州佐々木、越前の朝倉、安芸の毛利等に松永追討の牒文を遣さる由を風聞す。
松永、これを聞て三好日向守、岩成主税助等を呼んで潜に談じて曰く、今公方方の謀を廻し玉ふ事を聞給つらん、三好家の力を以て公方を立て天下の人に尊まれ玉ふ恩を忘れて当家を亡さんとの謀と以て他の結構なり、緩々として大事に及はば悔るとも益あるべからず、速に撃て根を絶たば諸国の兵将の拠所とする所あらずして当家の長久ならん。是を忽(ゆるがせ)にせば我家の傾敗を待つのみ也。此儀いかか思ひ玉ふぞと云ければ皆その意に同じて陰謀を廻しける。公方の謀は外方に露見して内方に隠密す。何ぞ其かくれ有べきや、誠に愚なる事也。即ち其罪、我身に報ひ来て其適(あたり)を受玉ふ也。
然して松永弾正久秀、三好日向入道釣閑、岩成主税介正富家人ども五人三人宛上京して段々に兵を増し、又公方は我より起し玉ふ乱なれども御内には何の備もなく男女さざめき渡て遊興の催し計也。五月十九日の夜中、俄に大軍四方より囲みときを作る。義輝公少しもさはぎ玉はずして敵は何者ぞと問へと仰せられければ、沼田上総介承り門楼に上り今宵の夜討は何者ぞ、名乗れ、聞かんと云ふ。武者一騎すすみ出て曰く、君の御陰謀顕れて三好殿代官として松永弾正久秀、馳向て候。四方八面大軍の囲みを受玉へば洩る所更になし、疾々御腹召さるべき也と云ふ。沼田、御前に参り三好弾正が謀反にて候なる、御自害を急玉ふべしと申す。義輝公、聞しめして、察したり、彼原に一矢射んとて日来御嗜の事なれば、弓とり合せ、さし詰め引詰め射玉へば矢にわに十余人射殺し、又太刀を捕て十余人伐伏玉ひて、扨ては快し、是まで也とて引入玉ふ。御所中に在合ふ人々は沼田、一色、畠山、当番の士十余人、児扈従同胞十五人、凡そ名字の士五十人には過ざりける。敵松永三千余人、芥川城三好日向守六百人、淀の城主岩成主税助五百人、京中の奉行人、或は五十人或は百人事の仔細は知ねども皆松永方に馳来て、御所の四方尺地も残さず囲みける。御所には亀井能登守、当日の大将軍を賜て兵士を下知しともに長刀を持て込入る敵を払出す。松永が先鋒に鎗中村と云者一番高名して僕従に渡し鎗を取て渡合互いに挑戦しが、中村勝て能登守を討つ。御所中の兵士、身命を捨ての戦ひ生て遁れんとする者は一人もなし。義輝公、今は是までと思し召し御母堂御台所と常阿弥円阿弥を以て御自害をすすめ、将軍家の宝器を焼て御年三十にして自殺下間し玉ふ。
尊氏公より十三代義輝公に至て断絶す。河州飯盛山城主、三好左京大夫義詰は此事を知ずして京都に事ありと聞き、何事とは知らねども先づ兵を揃て三千人を挙てかけ出し宇治橋に到りければ、松永弾正、三好日向守が計として公方義輝公を弑し奉りたりと告来る。是に因て路次より班軍す。此一挙、松永弾正三好日向守が所為にして三好家には知ざる事也。殊に長慶は永禄六年卒して其後の事也。乱世を救はん為、長慶の卒去を密して世に露はさざる故に長慶の企て也と云説あれども左には非ず、其上、御所の兵士二百人に過ず、執事方の兵士六千人に及べり。外州の兵士を催すに及ばず、殊に松永、己が権を専として他の力を借らず三好左京大夫にも知らせざる事を以て見つべき也。松永弾正と三好氏族と不快の事は是よりして起ると也。是、十河家の臣古老口つから語り伝ふ所也。 (松永弾正、将軍義輝を弑し奉るの記;巻之六)
足利義輝は、歴代のひ弱な足利将軍と違って希有な武術の達人。塚原卜伝を師とする鹿島新当流皆伝の腕前であった。また、中尾城や霊山城など築城の名手としても知られる。当日は、諸大名から献上された名刀を何本も畳に突き立てて応戦したという。他の史書では、実際に御所を包囲したのは久秀でなく、嫡男の久通と三好三人衆であったと記され、久秀は奈良に在って、興福寺に幽閉された覚慶(義昭)にも意外と寛容で、それが和田惟政らによる脱出を可能にしたという。(詳しくは⇒ ❡参照)