南海治乱記・・・三好山城守、三好日向守は、昨年本國寺の戦ひ不慮の変出来て事成らざりしかば摂州中の島に居て、大坂の本願寺に力を合せ、今茲(ことし)元亀元年に野田福嶋に城を築きて阿波讃岐淡路の兵将を呼んで是を守らしめ、毛利家に牒し合ひて畿内を守らんとす。野田の城には阿波屋形五千人を遣はして之を守る。福嶋の城には讃岐兵将、香川香西奈良安富寒川三千余人を以て之を守る。中の島には三好日向守、淡州安宅河内守、之を守る。其の他、高屋の城には三好山城守、堺には十河民部大夫存保、若江には遊佐河内守、飯盛には三好左京大夫義詰の居城也。摂州は公方家に服すといへども、河州は三好家の領国にして四国を根城とす。大坂本願寺顕如は諸国の一向宗より粮食を運び入れて相援ふ故、城強し。殊に毛利家より大船を以て粮食を饋ること絶えず、四国の兵将は海路に拠って舟路を開き粮道を失はず。
信長、これを聞きて八月、岐阜を発して上洛し、京都の警衛を足して摂州に下向し大軍を以て野田福嶋中の島を圍む処に、大坂本願寺に諸国より粮米を入れ門徒ども馳集まると聞きければ、先づ大坂の粮道を絶つべしとて兵将を分ち遣はし、樓か岸、川口、森口三ヶ所に要害を搆へ大坂の通路をさし塞ぐ。九月三日に義昭公下向あって大坂に着玉ふ。然る処に、紀州根来雑賀の人等、日来は大坂本願寺方と聞へつるが、今度公方家旧功の好みを以て義昭公に合力し、野田福嶋の攻手に加はる。大坂の兵将、先づ森口に敵を攘ひ往来を開くべしとて、九月十日の下間大進六千余人を以て森口表に打出る。信長は天満の森に陣を居て是を聞き玉まひ、佐々内蔵助、福富平左衛門等を遣はして戦ひを挑む。大坂方戦ひ勝ちて野村越中守戦死す。敵、競ひ進んで信長方、大敗に及ばんとす。前田又左衛門利家、後殿(しんがり)として引退き、大坂の兵将も城に還る。信長、既に野田福嶋中の島を攻落さるべき処に、京より飛檄到来して、去る十六日、越前朝倉、江北浅井三万余兵を卒し比叡辻八王子に押出し、山門の衆徒に牒じ合し大津松本を焼いて山科醍醐小栗栖に燧を揚げる由を告げ来る。信長、急に馳せ上って木幡山に陣して山門と相対す。紀州の兵将、雑賀孫一、岡ア三郎大夫、根来の岩室同清祐等、信長の帰洛を見て本国に引入る。朝倉浅井は、信長今度本国を離れ、長く駆けり遠く戦ふ、其弊へを計りて兵を起し、坂本に出て叡山に拠って信長の帰洛をさし塞ぎ、勝負を決せんと欲する処に、義昭公より勅命を以て和平を為さしむ。又、佐々木義弼より書を通じて曰く、信長の兵威必ず天下を覆ふべし、吾今、信長と和平を欲す。各々必ず自家の興亡を考へて後の患へを慮るべしと也。朝倉浅井、已を得ずして和平をなし本国に帰る。信長も亦変あらん事を恐れて野田福嶋の壓への兵将、稲葉伊予守方へは使を遣り捨てにして木幡山の陣を引去りて本国に帰りぬ。稲葉も兼て此変有らん事を慮りて、我が陣を潜かにして昼、陣外を侵さず、夜、篝を焼かず、穏便にして陣する故に、其後、引去るに及んで、敵その形勢を知る事なし。 (摂州野田福嶋築城記;巻之七)
この項は、第一次石山合戦を描いている。本圀寺で不覚を取った三好三人衆も、石山本願寺が信長に対抗する姿勢を取ると、俄然、元気を取り戻し野田福嶋に城を築いて対決姿勢を明らかにする。さすがの信長も石山本願寺を攻めあぐね、おまけに浅井朝倉や比叡山が京の背後を脅かし、実際に宇佐山城の戦い(⇒❡)で、弟の織田信治や森可成が戦死するとあわてて軍勢を近江に退却させた。この時、三好、本願寺勢が追撃をかけておれば、さすがの信長も両軍の挟撃を受けて滅んでいたかもしれないが、本願寺が義昭公の調停を受けて停戦に応じてしまったのは、三好勢にとって、本圀寺以上に不運なことであった。まさに運命の神に見放されてしまった感は否めず、このような好機は二度と訪れることはなかったのである。(詳細は❡参照)