南海治乱記・・・元亀二年に備前兒島日比浦の住人、四宮隠岐守より香西駿河入道宗心(元載)方へ告げ知らせけるやうは、今また備前国危難に及ぶ事あり。浦上宗景衰へて浮田八郎国柄を取るといへども、安芸の毛利家小早川隆景、備中を治め備前美作を取らんとす。此時、毛利家に和親をなし手合として兒島に出陣し、賀陽の城を攻取りて毛利家力を合せば讃州の長栄、此時に在るべき也。三好家の兵威衰へて頼むに足らずと申来る。香西氏げにもと思ひ、氏族を集めて此の是非を論ず。各々内々毛利元就の勇武を聞きて常々慕ひしかば、四宮が告ぐる処其謂あり、毛利家を通じて手合とし兒島を取るべき事は勿論の良謀也。さらば毛利家に通達せよとて使价を以て小早川隆景に告くる。隆景領掌して曰く、讃州より兒島に兵を渉さば備中より同所八濱に兵を出すべしと約をなす。
然して元亀二年の春よりも其用意をなす。城持の旗本には羽床伊豆守、滝宮豊後守、滝宮彌十郎、福家七郎、新名五郎、香川民部、国府の小早川三郎左衛門尉、新居大隅守、久利三郎四郎、上飯田右衛門督、中飯田備中守、下飯田筑城清左衛門尉、宮脇、藤井、中村の雑賀、笑原岡田丹後、本庄の真部、松縄手の宮脇兵庫、同弾正、木太の真部、太田の犬養、井原の漆原、安原の國廣、岩部等は一城持たる者共也。又其村主たる者は、一の宮大宮司、檀紙の植松、円座の遠藤、河邊民部、坂田庄官の楠川太郎左衛門、居石五郎兵衛等也。香西城下名ある者ども、香西備前守、植松備後、唐人弾正、片山志摩、秋山太郎左衛門、松浦清左衛門、山地孫左衛門、藤井太郎右衛門尉、仲飛騨守、鬼無の香西兵庫、岡の諏訪又右衛門、佐藤内蔵助、及生孫兵衛、葛西太郎兵衛、本津右近等は村主也。胴房には楽阿彌、徳阿彌、一阿彌、勝阿彌也。其外小子汎々の輩はこれを書すに及ばず。船大将は及生縫殿之助、池水太郎兵衛、塩飽の吉田、宮本、瀬尾(妹尾)、渡邊、直島の高原、日比四宮まで与力して海路の役をなす。馬上四百五十騎、兵卒三千余人、日比渋川下津井三ヶ所へ押渡り、三方に手分して島中に打出る。
香西宗心は下津井を立ちて賀陽に押向ふ。城中より吉田右衛門尉、三百余人を卒して打て出て切所を取り、稗田に於て一戦を始む。香西の兵士、五十人三十人宛の村主ども、山伝へに敵の後へ回る。稗田の敵、引退かんとすれども早戦に及び弓鉄砲のせり合ひ初まる故に、三百余人、中に取こめられ合戦す。敵軍敗れて若干討たれ、吉田右衛門尉は香西加藤兵衛と互に馬上にて乗り寄せ、引組みて落ち、重なり加藤兵衛が郎従、馳合て右衛門尉を撃取る。加陽の兵卒多く討れて敗卒少々、本太の城に入る。香西宗心、つづいて攻め寄せしかば日も昏に及んで雨ふり出て東西暗くなる。彼城は三方は海岸にして巌石数十丈、一方に堀をほり塀楼を搆へぬれば攻入るべきやうもなし。雨もしきりに降出しければ先づ、兵を退けんとす。俄に霧下りて前後を分けず、前を撃ても後を知らず、後を撃てども前知らず、此弊へに乗って城中より突出て、香西宗心が旗本を撃つ。然れども霧深く下りて前後左右の兵、是を知らず、宗心、床机の回りの者みな戦ふて死す。宗心、床机に居て、大将を能く討てと申して太刀を抜かずして討たれぬと也。諸手の兵士、大将の討死と聞きて右往左往と崩れ立て、下津井迄引退き、船本を尋ぬれども船の在所を知らずして行当り、途方を失ふ者多し。城兵も亦少なければ大敵を恐れて遠く逐ふ事なし。大将、宗心死亡の上は重ねて城を攻むるに及ばずして讃州の兵、皆帰る。
其三日にして加陽の城より使者を立て、宗心の首を送り来る。桶に入れ、上に卍を書き、白布に包みて持来る。香西、中州賀にて受取り、使者を還し葬礼をなす。上下男女、肝を落さぬものはなし。加陽の城には、安芸の顕徳院が門派の山伏ども数十人籠城せしが、数日の間、城中に壇を搆へ、怨敵降伏の法を行ひ、肝胆を砕きて祈りけるが、其験にや有りけん、計らざりき雨降り、霧下りて東西を分たず、暗み渡りて我兵卒左右する事を知らず、宗心死亡に到り、讃州の兵将、本国に帰る。宗心の男、八歳に成りけるを立てて君とし香西伊賀守と称名し、羽床伊豆守が婿に約し、其後見をなさしむ。新居大隅守、植松備後守を執事として家中の成敗を掌らしむ。
然る所に、其年八月、阿波屋形より回文を以てふれ来る。信長、京都に出張す。阿波讃岐の軍兵は以て摂州野田福島を守るびきの旨、三好左京大夫殿御下知ある所也。時日を移さず渡海すべしと也。香西氏八百余人を揚げて摂州に至り、福島の城にこもる。其城中にて伊賀守、痘瘡をやみぬ。陣中婦女の輔なければ保養の術を知らずして、浸すらに暖めて毒気眼に入り盲目す。其弟、千虎丸、久五、二人あれども家兄なればとて盲目を守立て家君とし其弟に譲らず。是れ執事、大隅守、己れが権を取るべき事を思ふ故也。其弟、千虎丸は香西備前守、其子六郎大夫、輔佐して撫育す。是に由て家中二つに分る也。 (香西宗心、備前兒島陣記;巻之七)
備前軍記・・・・按に此城攻并びに香西宗心討死のことは、宗心が末葉、香西成資といふもの讃州に住して記せし所にて、此国(備前)には記し伝ふることもなく兒島郡の民間に口碑にものこらざるゆえ、其時の城主、誰といふことをしらず。しかるに能勢修理といふもの、此城主にて、則ち修理が墓、本太城の東なる山の麓に今もあれば、其時の城主も此の修理にて後の宇喜多家へ臣従せしなるべし。又、能勢修理太夫頼吉といふものの墓、岡山府下妙勝寺にあり。是は元太の城主の修理が子にて、宇喜多の臣となりしなるべし。此の修理といふは多田満仲朝臣の末流、多田入道頼貞といふ者、此国にありて建武の乱に宮方にありて、始終心を不変して足利家の為に自害せしとここに言伝ふ。太平記にも八幡合戦に其名見えたり。此入道の墓は、濱野村松壽寺にあり。其子、多田太郎頼仲(一には吉仲)家号を改めて能勢と称して武家にしたがふといふ。此頼貞は、ただ多田入道といひ伝へて呼名等しれず、此修理も此入道の末孫なるべし。云々。 (兒島本太城合戦并五流山伏の事;巻第四)
「南海治乱記」に記載される本太城の合戦は、兒島の四宮隠岐守にそそのかされて推進した香西家単独の合戦のように記載されるが、果たしてそうなのだろうか?この頃、備中で急に台頭しつつある浮田(宇喜多)直家と浦上宗景は三好氏と同盟し、西の毛利氏と対峙していた。当時、本太城は毛利に属する村上水軍の兵将、島吉利(⇒❡)が守っていた。ところが元亀2年になって、村上武吉が急に浦上方に寝返ったのである。そこで小早川隆景が、香西とともに本太城と攻めたとする説である。元載の死後、浦上氏と手を結ぶ三好方の篠原長房が備前に出兵し、小早川水軍を打ち破っている。南海治乱記の記述や毛利方の資料(閥閲録)等とはよく合致するが、これでは、当時、香西氏はすでに三好氏を離反していたことになる。長房が直後に、当主を失って混乱している香西氏を攻めなかったのも不可解である。一方、本太城の能勢修理介(⇒❡)は、「備前軍記」にあるように浮田直家に従う小領主で、香西家はこのような浮田勢を抑えるために一族を率いて兒島に出陣したとも考えられる。この頃の直家は、周囲の武将を次々と謀殺し、一時、尼子氏と同盟するなど毛利家とも敵対関係にあったので、毛利家からも香西家に依頼があったのかもしれない。しかし、本太城合戦の頃は、浮田氏は一時的に浦上氏に臣従していたので、香西氏と事を構えることは考えにくく、能勢が城主になったのは浮田直家が権力を掌握する天正年間に入ってからかもしれない。・・・結局、香西元載が戦ったのは、村上水軍の島吉利なのか?浮田氏の能勢修理介なのか?・・謎は尽きない。
いずれにせよ、香西元載の戦死は、単独戦による犬死などではなく、浦上家を介した三好家と毛利家との大きな抗争の犠牲とも言えよう。なお、「賀陽(加陽)」は、現在の(倉敷市児島)「通生(かよう)」で、本太城は、通生港より北部の、海に突き出た岬の突端に位置する。また、八浜合戦は、後年、天正10年の毛利勢と、織田方となった宇喜多勢(直家は前年に病没)との戦いで別物である(詳細は❡参照)。本太城の合戦と毛利側の資料については、「戦国三好氏と篠原長房」(若松和三郎:戎光祥出版.2013)に詳しい。