南海治乱記・・・天正三年に香川兵部太夫信景より使价を以て香西伊賀守佳清へ申さる々は、奈良但馬守は畿内の地を放(はな)れがたくて宇足津に下り来らず、故に奈良が従兵ども恣にして民を虐げ暴逆を為す。新目、本目、山脇の三家は我が旨に従ふ。金倉顕忠、曽て帰服せずして却て其境を犯す。近日、兵を揚げ是を討んと欲す。羽床、福家、瀧宮三家の合力を頼たきの由を通達す。香西氏、是に従ふ。既に香川の家臣、香川山城守、大比羅伊賀守、三野菊右衛門を大将として一千余人を指向らる。香西家の援兵、羽床、福家、瀧宮豊後、同彌十郎、期を同ふして馳向ふ。金倉氏、城を出て切所を搆へ防ぎ戦ふ。五百余人を五手に分て、三手は香川方へ向はしめ、二手は顕忠自ら先を駆て福家七郎に向て戦を始む。彼我必死の勢を出し、曳々(えいえい)声を出して攻戦ふ所に、瀧宮豊後、瀧宮彌十郎が二陣、左右より挟んで是を伐つ。福家七郎、旄(さい)を取て攻めかかる。顕忠が兵卒破れて退く。福家が僕従、石若と云者、軽足にて能走り顕忠に追著て、のがさじと詞を懸る。顕忠、駒引返し奴がれめとて馬より飛下り刀を抜て相向ふ。石若、鎗にて渡り合、突倒て首を取り、立上らんとする処に瀧宮彌十郎かけ付け、其首を此方へ渡せと云ふ。石若曰く、左言ふこと勿れ、我が主に奉ると云所へ、福家七郎かけ付て何事をか言と云へば、我が取たる首を奪んとすと云。彌十郎が曰く、我が手先にて取たる首なれば佗方には遣らずと云。七郎聞て、石若が討たる事は隠れなし、首は彌十郎殿に渡せよと下知せらる。石若が曰く、首は遣はすべし、冑は遣はすまじとて持帰る。頸帳には大将金倉顕忠を瀧宮彌十郎手へ討取と云へども、討手は福家七郎が僕従石若が高名と記せり。其時、羽床伊豆守が扱いを以て仲郡は香川方に属し、宇足郡は奈良太郎左衛門に属する也。 (讃州那珂郡金倉陣記;巻之八)
西讃府志・・・・中津為忠墟 下金倉村川東にあり。鬼屋舗といえり。延宝年間、闕て田畝となせり。相伝ふ、六孫王経基の五男、下野守満快二十一世の孫、三郎左衛門為景、此地に居て、金倉柞原等を領せり。其子為忠将監と称す、武力人に絶たり、自ら其勇を頼み、驕奢限りなし。人呼て鬼中津といへり。香川信景と善ならず。天正三年信景、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、羽床伊豆守と相謀り、討て是を滅せり。幼児あり、乳母是を懐にして、其臣西山久左衛門、前川原吉右衛門等と同く、圍を抜て阿州に入り、櫛田村に隠れ居れり。年長るの後、甚太夫忠英と名のり、又此地に帰り、農を業として世を終ふ、其裔今尚ありと云。
〇今按に金倉顕忠の居趾、彼村にて尋ぬるに知る人なし。圓龍寺西教寺に其墓あれど、正しき伝なければ、証とするべきものなし。爰に為忠とあるが、或は顕忠と同人なるべし。治乱記には、父祖の名を誤りて、其子孫にも用ひたること時々あり。顕忠は為忠が父祖にさる名のありしを伝へ誤りしにもあらん。右にいへる為忠が伝も、治乱記にいふ処の顕忠のことと大にかはりたることなし。今姑く並べ挙て、後考に備ふ。 (古城;巻四十八)
玉藻集・・・・・金倉賢忠 天正元年三月、那珂郡金倉の郷に金倉賢忠と云者あり。是は細川家の士にて、晴元の代迄は多度郡に居住したり。三好家に成て三好実休に従ひ一家を立しが、今、三好家も乱れて、面々境を争ふ半に、金倉近邊を取て大身に成る可しと思ひ、那珂・多度・宇足津の邊境におしかける。羽床・長尾・香川・奈良等是を悪みて、取ひしぐべきと相定ける。香川山城守信景、西三郡の勢を揃、二千人を以て那珂郡に討て出る。香西方より手合として、瀧宮豊後・瀧宮彌十郎・福家七郎二百余人の勢を以て加勢す。既に合戦始り、香川方柞田・和田・小田・小野・輪佐・大平・山地等一二百の手組を定て、合戦の備へを立にけり。
金倉賢忠、諸手の㕝(こと)構ずして、香川信景の旗本へ討て懸る。然所に三野方の勢五百人計にて働きければ、金倉乱て敗北する所を、香西方福家・瀧宮二百人計にて追打にして、苅田の縄手にて賢忠を討取、首数多く取にけり。爰に福家七郎が家人に岩端与兵衛と云者、縄手の勢の中に法師武者に寄合、太刀打して終に与兵衛討勝て、首を取てけり。早軍散しければ、鎧甲・刀脇指迄分取して、従者壱人に取持せ、我は首と甲を持て帰るに、道にて瀧宮彌十郎に行逢てければ、彌十郎其首をくれよと云。与兵衛、仔細に及ばず罷り成ぬよしを申す。彌十郎是非取る可しと、大勢わりかさなりて奪ひけるとき、福家七郎其場へかけつき、何事ぞと尋る。与兵衛申は、我取たる首を奪ひ取申す可しとて此の如しと云。福家が云、其方数度の高名あれば、此法師首何かせん、相渡し候へと云ば、与兵衛、我主の此の如く仰せらるる上は首計まいらする。甲はならずと云て、首を渡しける。瀧宮彌十郎其首を香川信景へ持参して、今度の大将金倉賢忠をば、瀧宮彌十郎討取て候と実検に入ければ、信景大に褒美有て、牛の子山の麓にて十二町の所を瀧宮彌十郎に宛てがはるる。其後福家七郎・瀧宮豊後にも闕所の地五町・十町づつ賜りにき。其後亦那珂郡へ香川信景馬を出し給ふ時、福家七郎も出馬しければ、岩端与兵衛が㕝聞き及たる間、対面あらんとて呼出し、金子等たまはり、日来の手柄聞及たりと褒美之有りて、面目をほどこしける。瀧宮彌十郎大禄は請たりといへ共、貰ひ首取と嘲りしは面目なき次第也。金倉が跡は香川家より仕置し給ふ。今度高名の衆、亦は香川家旧功の衆へ割符して加恩せよと也。
三好軍が讃岐に雪崩れ込んだ混乱期に起こったこの合戦は、単に金倉顕忠の暴虐と野心だけが原因だったのだろうか?確かに衰微した奈良氏の治める鵜足郡や那珂郡の一部が、家臣の分取りになってしまうのは往々にしてありがちだが、香川氏の直臣でもないのに、「新目、本目、山脇の三家は我が旨に従ふ。」とあるのは、どういう意味であろうか?おそらく、新目や本目は侵入した三好勢と戦うことに同意したが、金倉だけは三好方に味方して、香川氏と敵対したのが原因ではなかったか?単に小城持ちの小領主だけが敵というのなら、香川氏の軍事力を以てすれば別に香西方の援軍を借りるまでのこともないと思うし、信景が福家や瀧宮を取り立てて所領を与えているのも、三好という外患に加えて内憂をも倒したという安堵感の表れかもしれない。金倉顕忠の最大の計算違いは、三好軍が余りにも不甲斐なく撤退してしまい四面楚歌の状態に陥ってしまったことであろう。小生は、「西讃府志」の記述が最も史実に近いのではないかと考えている。当時の村人に聞いても金倉顕忠の遺跡などすでに誰も知らなかったというのも面白いし、遺児が阿波に隠れたのも、顕忠が三好方であった何よりの証拠と考えている。江戸時代に金倉に戻って帰農し遠山氏を名乗ったことや、城址と考えられている圓龍寺が南北朝時代の多田氏の金倉城との混同であることなど興味深い事柄が、「金倉の二千年」に記載されている。なお、「玉藻集」の記事は、石若の実名を岩端与兵衛として(まだ小童だったのだろう)、与兵衛を巡っての福家七郎の“大人の対応”が実に爽やかで、瀧宮彌十郎の“貰い首”の不名誉をさらに際出させながら後世に伝えている。