南海治乱記・・・天正四年十二月五日夜、細川掃部頭は勝瑞を出て福浦出羽守を頼み伊井谷に落行く。相供する侍には仁木伊賀守、林喜内、唯二人、下僕三人ともに五人也。出羽守仁心ある者なればかいがいしく計て仁宇山の奥に要害を搆へ、細川屋形の旧臣、大栗右近、服部因幡守、森監物、栗田宇右衛門、中津野六郎左衛門等を招き寄せ番役を勤めさせて居たりける。是、掃部頭、阿波の屋形とは云へども国政を執らざれば世人は長治を三好屋形と称して掃部頭を屋形とは言はず、萬に附て云甲斐なき躰なれば何れの頼みある事も無けれども、長治を人の疎むを見て若もやと思ふばかり也。長治、安からず思はれければ明る天正五年三月上旬に兵を揃へ、荒田野口に在陣して仁宇山へ兵を向はしむ。山路難所なれば押寄る事叶はずして数日を送る処に、一宮長門守、井澤越前守、逆心を起し軍勢を揚て後巻をなす。長治の兵衆叶ひがたくや思ひけん、切火縄をして竹木に結びつけ多兵の寄る勢を為し潜かに其夜長治を供奉して篠原玄蕃允が居城、今切に入せ玉ふ。是れ玄蕃と相議して大軍を起し仁宇山へ押寄すべき為なり。然るに一宮成助、井澤越前守、時日を移さず、細川掃部頭を大将として二千人、今切の城に馳向ふ。長治叶ひ難くして、土佐の泊に居住せし森志摩守方へ使を遣はし淡州へ渡海あるべき事あり、急ぎ船を助任の川内へ廻すべしと有ければ、志摩守急ぎ舟をさし越たり。時は弥生下旬の雨の内に前後も見へぬ暗き夜なれば、加子山を立ち違へて助任の川へは入ずして佐古山の下へ乗入れたり。長治、夜中に今切の城を出て助任の川に来り昇り降り尋ぬれ共舟は見へず。東雲の明行くほどに力なく別宮へ渡り有て里の吏を呼び、淡州へ渡り玉ふべき事あり、急ぎ舟を出すべしと有ければ、里の吏畏まりて候と申ながら敵の方へ注進す。一宮長門守成助、井澤越前守頼俊、二千余人にて馳せ来り長治の居所を取り圍み遁るべき方なし。長治力なく天正五年三月八日辰の時、自殺し玉ふ。姫田佐渡守介錯仕り其刀にて自殺す。濱隠岐守、梶井又五郎、原彌助同く自殺す。三好式部少輔康俊は長治のゆかりなれば、行跡の宜からざる事は自然の序にて以て諫め申ける故に、次第に疎くなり近年は外様のやうに成り居たれども、今此時に至て感涙を流し、黄泉の供とて自殺しにけり。長治、かり初のやうに勝瑞を出陣し玉ふ処に二十日に足ずして亡び玉ふ運の程こそ浅ましけれ。
今切の城主、篠原玄蕃允は敵、前後より押寄るを見て叶はずとや思ひけん、大岡と云所に在宿せし家人、郡勘助と云ふ者の宿所に落行ける所に、勘助は玄蕃を隠し助くべしとて古井の中に置き敵方に註進して敵の手に渡しけるこそ墓なけれ。人君としては一人の親しきに私しすべからず、国家の人民は皆我が民也。何ぞ一人ばかり我が親き者ならんや。数万の人民に疎まれ一人の親しきに親まれば何の益かあらん、一人の親きにうとまれ数万の人民に親まれば是こそ人君なるべけれ。長治の如きは篠原玄蕃さへ親き友に非ず、増て国民をや。一夫にして友なきもの也。適々、阿波の人君に生れて国民の寇となり其身一生をさへ全ふせざる事は何事ぞや、国民に親まれ死生を共にするならば土佐元親、阿波を望むべからず。一宮成助、井澤頼俊が謀反せしも長治私あって篠原玄蕃允に贔屓し玉ふ故也。所以を如何にと云に、讃州瀧宮豊後守下人と篠原玄蕃允が下部と口論を為出(しで)かし、主人の沙汰に成て長治公に達す。豊後守が理なれども玄蕃允が出頭人なれば玄蕃允が理分になさる。豊後守は井澤越前守が伯父なれば長治へ恨みを結ぶ。又、早淵主馬助に加増を賜べき事あり。篠原玄蕃允が讒言に因て其事止ぬ。剰さへ悪みを蒙る。早淵は一宮長門守が姪なれば長治へ恨を結ぶ。是程の私は何れの家にも有ことなれども主将の権威ある時は恨べき事もも恨みず、機権を失ふ時は恨ましき事も恨るもの也。主将は徳威兼備すべき事必せり。長治愚暗にして人を知り玉はざる故に日来の出頭人ども一人も君と死を倶にせず、篠原玄蕃も君を捨て城を出て犬死にも非ずして蟇(ひき)の如く殺さる。長治と死を俱にせし人々を見れば恩恵の厚き人には非ずして、唯君臣の義を知たる人々也。君君たらば何ぞ国の傾壊する事あらんや。 (三好長治滅亡の記;巻之八)
細川真之は、三好長治の横暴と閑却に堪えかねて、遂に勝瑞を抜け出して仁宇山に脱出した。発作的な行動ではなく、前々から緻密に計画された脱出だったと考えられる。長宗我部氏の海部侵攻から1年以上が経過し、真之との間で何らかの協定があったのかもしれない。むしろ、発作的に攻撃をしかけたのは長治の方で、その結果真之の計略にむざむざと嵌まってしまい、腹背に敵を受けて滅んでしまったのであった。治乱記には、一宮成助と伊澤頼俊が私怨を持っていたことが記されているが、大した事項とも思えず、これだけで主君を殺めてしまうとは考えにくい。やはり、大きな力がこの事件の背後には働いていたのだろう。それはさておき、長治に殉じた中に、三好式部大夫康俊の名前があるのは解せないことである。康俊は三好康長(笑岩)の嫡男で岩倉城主であり徳太郎と言われる人物である。2年ばかり後で、元親への手土産として、矢野駿河守や森志摩守を籠絡して討ち取った張本人であるから、ここで殉死したとは考えにくい。「三好記」には康俊の時世の句まで挙げているが、最も古く成立した「昔阿波物語」では何の記載もなく、どこかで紛れ込んだ誤った逸話が、誤りの連鎖で伝わったものかもしれない。何となく、細川持隆自害の折の蓮池清助や星合勘太夫の忠義話と混同している可能性も否定できない。それに較べると、蟇のように殺された篠原玄蕃允はかの篠原実長(自遁)の嫡男で、親の因果が子に報いた典型と言えよう。