南海治乱記・・・天正五年春、元親、大西の邑を乗取たるに力を得て、同年の九月八日、一宮長門守其弟主計頭相倶に兵を卒して八満宮田を回て助任を踰(こ)へ高崎表へ打て出、方々発向して一宮へ帰んと壇の原を南へ押通る処に、勝瑞に在陣せし淡州の兵、成助が動べき事を兼て聞たる故に其帰路を絶んと思ひ、傍輩にも語らずして私(ひそ)かに出て中途に伏し延明の藪陰より鉄砲百挺計り横合に打懸たり。成助これを見て、敵は少兵也、あれ打散せとて鉄砲二百挺ばかりにて打立る。淡州の兵弱々と引退くを追かけ来る処に、其藪陰に介冑したる武者五百人ばかり鎗の鉾(きっさき)を揃て待居たり。成助が兵士も馬より下り立て戦を始る。淡州、安宅市之助正行と名のって真先に進む処を伊予国の住人、目取采女友春と云者、当時成助方にありしが鉄砲の上手なればあやまたず射落す。淡州の兵と一宮方の兵と入乱戦しが、一宮方打勝て新居川の端まで追詰め三百余級を得たり。一宮方にも能兵数人戦死して成助兄弟も一宮城に帰る。   (一宮長門守、高崎表に出陣の記;巻之十)

 

南海治乱記・・・天正五年夏、矢野駿河守、篠原肥前入道自遁と相倶に謀て井澤越前守を討つ。其後、一宮成助を討んと謀を回すと云へども、成助大身の者なれば兵士も多く扶助し能く一和せしかば、勝べき道なくして日を送る処に、成助土佐方に一和せし由聞ければ、先ず南方桑野を取返すべしとて矢野駿河守、篠原自遁兵卒三千余人を卒して南方桑野に発向す。一宮成助、土州の手合として其後に出る。篠原自遁は其変を知て紛れ忍で北浜に帰る。矢野駿河守は兵を引て帰りけるが、柴山に打上り敵の方を見れば兵士五百人ばかり勝浦川を踰て慕ひ来る。駿河、心早き兵将なれば能きしほ合に引付け合戦を始む。南方の兵こらへずして丈六寺に入んとす。駿河急に攻つけ首級二百余騎を得たり。夫より舟に乗て津田へ渉り勝瑞に帰陣す。其後、阿州の兵将、紀州に牒じ合て大兵を招き七千余人を以て一宮に攻寄る。成助、城を守る事を得ずして密に兵を引て大栗山の奥焼山寺へ取籠る。彼山は難所にて常に行く人もなければ道細して岩高く大木生茂りて通路自由ならず。仁宇山、勝浦山、海部山何も山分は土佐方へなり、成助と一味なれば此所にて暫く時変を待ちぬと聞ける。  (矢野駿河守、南方桑野に出陣するの記;巻之十)

 

昔阿波物語・・・一.天正五年の秋、一宮殿、高崎へ手遣成され候。淡州衆聞付て、其儘住吉川を渡し、新居へさして越し候を、一宮殿は名東山(徳島市名東町)に人数を置き、淡路の取出し候を御見せ候に付、はやばや御見付候。一宮殿の内に梅雲と申す軍ばいくり御座候が、梅雲申し候は、今日は西にむかひ候て合戦にかち申し候間、名東に御陣取を成され候へ。かならず勝に罷り成るべしと申すに付て、名東にて御待ちなされ候所に、淡路衆すすみ候て、はやふち(徳島市国府町早淵)へ指越し候。市ノ宮主計殿は、はや市ノ宮へ御帰り成され候ひつれ共、あはじ衆の打出し候を御らんじ候て、大栗山へ弓五百ちやうにてかけ付けられ候時、未だ鑓のはじまらぬ内に、たんの原へかけ出られ候。かかる所に、淡路の安宅市之助(正行)と申す人、はやり候て、壱人さきにかけ出し、名東へさして懸り候。名東と早淵といふ河壱つ隔て候所に、一宮殿の内に伊与衆に妻鳥采女と申す者、鉄砲の名人にて候。待ちかまへて居り申す所へ、安宅市之助矢たまらず、鑓を持って掛り候。采女ため付て、五、六間より寄て打をとし候を、みか浦のみのわ新右衛門と申す者、はしりつき、首を取り候。則ち市ノ宮殿自分やりを以て御かかり候。主計殿は山の者に五百ちやうの弓にていかけ成され、淡路衆たまらずくづれ申し候。新居川へ逃げ申す内に、淡路衆首弐百五十取られ候。其外阿波衆町人は首百取られ、人は三百五拾市ノ宮殿へ首上げ申し候。其時淡路衆の能武者五百人にて候。弐百五十首取られ、残り弐百五十人も手をおはぬ人はなく候。せなかを二刀、三刀きられたる人もあり。うでを後からきられたる人もあり。いき残りたる人も、きられぬ人なく候。淡路にはおこりをふるい申し候ば、市ノ宮殿と申せば、なにたるおこりも落ち候と申し伝へ候。

        一.同日、矢野駿河は三千人にて、南方へ手遣仕り候所へ、淡路の人相果て候事を聞き候て、南方より引き候所に、南方衆五百ばかりにて、跡を付けしたひ候を、駿河は一宮より八万へ人数出され候へば、勝瑞へ戻り候事なるまじきと覚悟して、柴山へ取上り、船にて津田へ渡り候はんたくみを仕られ候。自遁は町人つれて北浜までおちおち出られ候。則ち駿州殿は南方衆勝浦川までつけ候をみて、柴山より人数を打下し、南方衆を丈六寺へおひ入れ、首百五十打取りて、柴山へうちあげ、舟にて津田へ渡り、自遁と一所になり、勝瑞へ戻られ候。その後紀州より人数下り候て、一宮の城取まき候時、一宮どの叶はず候て、大栗山のせうさん(焼山)寺と申す山へ御はいりなされ候。其比は大栗山は大木はへて、みちはかんせき(岩石)にて、何はど人数がありとても、山へ入る事ならず候に付て、上郡山、仁宇山、勝浦山、海部山、何も一宮殿一味なり。里分は北方より身体(進退)仕り候。され共大将がなければ軍がならず候と申され候て、讃岐の十川どの勝瑞へすゑ申し候。三好正安(存保)と申し候。 (第二)

 

 

         井澤頼俊を討った矢野国村は秋を待って、淡路や紀州の加勢とともに一宮方に大攻勢をかける。一宮城を南の搦め手から攻めるために、まず土佐に寝返った東条関之兵衛の籠もる南方の桑野城を抑えようと篠原自遁とともに勝浦川方面に進軍した(⇒)。一宮成助は、それを察して矢野軍の後方に出ようと八万から助任川を渉って高崎表方面(現在の徳島市不動本町付近)に駒を進めた。それに気づいた勝瑞の淡路勢が独断で一宮城大手口に近い早淵や延命(四国14番常楽寺付近)にまで深く侵攻したため、成助はそのまま一宮城に向かって兵を帰し、鮎喰川を挟んでの遭遇戦となった。ここで淡路勢が勝てば矢野軍も有利になったのだが、大将格?の安宅正行が妻鳥采女友春の鉄砲で撃ち殺されてしまい思わぬ敗軍となってしまった。これを聞いた矢野、篠原連合軍は後方に敵を受ける恐れが出て、気の弱い篠原自遁は夜に紛れて単独で軍を引いてしまう始末。困ったのは矢野国村である。柴山(小松島市芝山)に登って敵を見るとすでにこちらに向かって勝浦川を渉ろうとしていたため、頃合いを見計らって合戦に及び、敵を丈六寺に追い込んでさんざんに討ち取った。その後、舟で勝浦川を渡って対岸の津田(徳島市津田町)に上陸し、無事、勝瑞に帰還した。さすがは猛将矢野駿河守である。この二つの戦いは同日に起こったものである。阿波同士の合戦の場に、どうして伊予川之江城主の妻鳥采女正友春が居たのかはよく分からないが、鉄砲の名手ということから、土佐方となった大西氏などを通じて一宮方に河野流鉄砲術の指南として招かれていたのかもしれない。とすると、この合戦は、一宮河野流VS三好雑賀流の鉄砲戦という興味深い一面を持っているとも言えよう。それにしても、こそこそと自分だけ撤退する篠原自遁の不甲斐なさは、およそ兄の紫雲とは似ても似つかない懦将としか云いようのない体たらくである。この戦いの後、三好方は七千余の軍勢となり一宮城を包囲したので、さしもの成助も焼山寺に逃げ込んで、しばらくは様子見を決め込んだのである。

 

 

 

 

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