玉藻集・・・・・讃州は、足利尊氏の時より細川頼春に賜り、相継で管領頼之より以来代々所領。細川家滅て後は、家人香川・香西・長尾・羽床、四角に峙て諍㕝年久。其比長尾・羽床一味同心して、同国摺臼山の城主香川民部大輔頼信を攻悩す。香川も数戦ふといへ共、敵は大勢味方は少勢、討負終に城を落去。又長尾・羽床、摺臼山に討納て、香川が所領を配分す。香川憤りて安ぜず、備州三原に押渡て、小早川左兵衛門佐隆景を頼み、本領安堵の歎きを怠らず。隆景聞て、凡兵に正兵奇兵とて両道を分つ。我正に仁義を以て先とす。香川来て頼むは是、拠んどころなき武士の道也。時日を移しては叶うまじと、井上伯耆守春忠・浦兵部丞宗勝に五千余騎を属て、讃州摺臼山に向は被るる。随遂の武士には梨羽中務大輔・小田小次郎・飯田讃岐守・乃美四郎兵衛尉・井上豊後守・南三河守・末近助兵衛・虫上彌左衛門・弘中藤兵衛尉・有地民部大輔・小泉左衛門大夫・木梨備後守・椋梨左衛門尉・海上警固には村上掃部頭・同三郎兵衛尉・同源三郎・末永常陸介・生口孫三郎・木谷孫四郎、兵船三百余艘、都合其勢五千二百余騎、天正三年五月十日備州三原を漕出し、讃州摺臼山に押寄たり。

         敵角とは知らず、僅二百余騎の兵にて、大敵に此城圍れては叶ふまじとて、五月雨に洪水崖に堪へたるこそ幸なれとて、山を下って川崖に備へ設け、半渡を討たんと欲す。寄手川の案内をば知らず、扣て進み得ず。暫く矢戦に時を移しけるが、敵堪ず、欺き渡す所に、玉箭雨の如く射放ちければ、多く討れて河水に尸を流して、続く勢は引返す。寄手是を見て、此川浅し今は渡して軍せよと、河水に馬を乗入喚き叫て向の崖に乗上しかば、二百余騎の兵共楯を被き連て、防ぎ戦ふといへ共、悉く討れて残兵散々に敗走す。寄手追懸鎗を合せ、或は引組て首を捕、或は生捕、一騎も残らず討取、摺臼山に蒐上れば、長尾太郎左衛門・羽床小次郎皆落去て、敵一人もなし。茲に因て香川民部大輔頼信を旧城に移し、二百余騎を属置て、六月一日小早川の軍勢は、備後の三原にぞ帰りけり。

 

御答書・・・・・其後讃岐の香川、数年牢人して御当家を居候を、帰国仰付けられ候とて御人数渡られ候、然ば讃州多戸郡に三好遠江と申者、元吉と申す山を持ち罷り居候、是は阿州の家人にて候、其節此方へ御味方致すべく馳走仕候、是へ阿州より取懸けらるの由に候付て、追々御人数相渡され候、先手へ遣され候、警固衆多戸津に在陣候処に、阿州衆元吉の城へは働き候、此方警固衆元吉の城より坤に磨臼と申す山候へ打上候処へ、阿州衆手づかい仕候処に、警固衆打脱し合戦候て、味方勝利を得、阿州衆を追崩候、元吉よりも罷り出、両口より付候て追討首百斗り打取候、され共元吉の城より一里程候て、長尾・ハイカと申者一城宛相構これ有りに付て、三好遠江山の普請等仰せ付けられ候、阿州と御取相候、此方よりは元清公御人体として御渡海成され候、福原式部大輔元俊御供申られ候、阿州より大軍にて出で催さるるに付て、輝元公より重て御馬廻りの衆人数七八百御渡しに成られ候、輝元公は備後の内三原に御在陣成され候、隆景公は備中笠岡の城の御座候、阿州衆風聞の如く罷り上げ候は、御両殿も御渡海成さる可く御次第に候、此年九月廿九日艮の方大彗星出る、此年松永霜台久秀同右衛門佐久通、義輝へ逆意仕り信貴の城に於て相果候、然処に仙石少弐と申人扱にて、此方、阿州 御和談に成られ、阿州より三好名字の人二人、元吉山下に至り罷り越され候、元清公後御陣より御下りに成られ候て御参会に成られ、三好遠江も阿州へ一味候て身体異なく治まり候、左候て此方の御人数悉く打入れ候以下、・・・

 

野史・・・・・・天正三年、是より先、細川氏亡臣、香西、香川、長尾、羽床等峙立し讃岐国を相争ふ事有年。是に至って長尾、羽床相党じて香川頼信を摺臼山城に攻る。頼信、勢微にして陥られ去る。二人其の邑を分奪す。頼信逃げて三原に来て倚頼し、旧邑を復さんと請ふ。隆景謂ふに、凡そ兵には正奇二道有り。吾、正を以て義と為す。頼信来て憑(たの)むは是武也。棄つるべからず。井上春忠、浦宗勝の兵五千、村上武慶等船軍三百余艘、五月に海を航して摺臼山城を攻て之を抜く。頼信をして其の城を復さしむ。  (巻一百三十八;武臣列伝第四十六 小早川隆景)

 

西讃府志・・・・〇櫛梨山城  下櫛梨にあり、山高四十間、城趾三段余、御巡見使案内帳に、三好遠江守元吉居、永禄の比落城とあり。・・・(古城)

        〇永禄四年七月七日、吉川小早川の両将、二万余騎にて押寄、下金倉堀江のあたりより、舟あがりす、此時(香川)基家三百余人を率て、信景の先陣して、安芸勢と戦ひ死すとあり、此こと諸書に見る処なし、安芸勢の来るは、西の庄の香川(民部少輔行景)を救んとして来れるなり、此時ここにて戦ひしこと覚束なし、或は永禄元年三好氏の雨霧を圍みし時、寄手の中に、小早川三郎左衛門と云あり、此時戦はなかりしと、治乱記などに見ゆれど少しの取合はありしにて、此小早川を伝へ誤りしにもあらん。(細川氏被官下)

 

         元吉合戦については南海治乱記の記載はない。天正7年の西庄城の合戦と同一視する文献もあるが二つは全く別の合戦である。讃岐の記録では「玉藻集」が最も詳しい。意外に毛利側の記録が多く残っているが、これこそ西庄城のものと混同が多そうなので研究者を混乱させる要因ともなっている。ここでは小生の私見を些か述べてみたい。永禄元年の三好実休による香川氏攻略の後も、三好氏は目付役を讃岐に残していた。おそらく香川氏に睨みを効かせる元吉山(善通寺市櫛梨山)に交代で一族を在勤させていたのだろう。三好遠江について詳しいことは不明だが、「阿波国徴古雑抄」には、川島城の武将に三好遠江守の名前があるので、篠原氏滅亡の後、讃岐に移ったのかもしれない。当時の讃岐は香川・香西両氏が信長方となり三好氏を離反する緊張状態にあった。しかし、元吉城に近い土器川東面の長尾氏や羽床氏は三好方に靡いていたのであろう。長治が滅んで阿波は混乱状態であったとは思うが、矢野駿河守などの統率力でむしろ闘志満々と長宗我部に備えて体勢を立て直しつつあったに違いない。そうした状況で三好遠江守が香川方に寝返った。元吉城を出て金倉川(当時は野田川といった)対岸の、香川一族の頼信が居城する摺臼山(善通寺市生野)に移った。それを長尾・羽床連合軍が攻撃したのである。阿波の守備兵も加わっていたことだろう。香西氏も一族の羽床氏が攻め手なので、迂闊に香川を援助することはできない。前年に信長と和親したとはいえ、石山本願寺や播磨攻略に難渋する時期だけに信長の援兵をすぐに期待することもできない。そこで香川氏は信長と敵対する毛利氏に救援を頼んだのである。香川信景までが毛利に落ち延びたかどうかは疑問だが、この行為は信長への大きな背信であり香川氏滅亡への終わりの始まりでもあった。果たして毛利は救援要請を受諾して即刻、大挙して押し寄せた。総大将は毛利元清(毛利元就の四男。穂井田元清)というから、かなりの力の入れようである。毛利に身を寄せていた足利義昭の意向も働いたことだろう。義昭にとっては、三好は兄義輝の仇、信長は幕府を滅亡させた張本人だからである。小早川水軍を香川氏の本拠地の堀江(多度津)に上陸させて、たちまち長尾・羽床勢を打ち負かし摺臼山城を元の香川頼信に返し与えた。しかし、毛利の攻勢もここまでである。石山本願寺への対処や、秀吉の中国進攻に備えて四国の情勢に余り構っている時ではなく、毛利水軍の力を見せつけて早々に三好方と和睦し、三好遠江守も無事、阿波に帰参したようである。仲介をした「仙石少弐」とは何者であろうか?仙石秀久とは全く別人のようだが、義昭の御供衆にそのような人物がいたのであろうか?興味が惹かれる所である。しかし、周囲の讃岐の領主達は、さぞ冷たい視線でこの戦いを見守っていたことだろう。後々、気まずくなった香川氏は家臣達の死闘を尻目に長宗我部氏から婿を迎えてそそくさと平伏し、香西氏は羽床氏との深刻な内輪もめに苦しむこととなる。この意味で、元吉合戦は細川以来の西讃領主の結束をズタズタにし、全てを滅亡へと導く最初の鉄槌となった重要な戦いなのである。なお、この合戦の毛利方史料による歴史的な考証は「瀬戸内海地域社会と織田勢力」(橋詰 茂;思文閣出版.平成19年)に詳しい。「御答書」も本書を参考にさせていただいた。

 

 

 

 

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