南海治乱記・・・天正六年正月十一日、伊賀守が執事、香西大隅守資教、居城新居邑より香西藤尾の城に来り成就院に入て陽春の祈禱とて日待の修行す。氏族の者も昏なば伽に行ふべきなど云ひて未だ来らず。伊賀守の弟を千虎丸と云ふ。此の守立の老臣を香西備前守、其子六郎太夫、父子常々謀みけるは執事大隅守と植松備後守を撃て、伊賀守は盲目なれば隠居せしめ我が守立る所の千虎丸を立て家督させ、我父子執事たらんと思ふ也。故に常々与力すべき者を親く懐(なつけ)て党を立る心あり。中にも真部氏族は世々武勇の者なれば、先づ此者どもを親く友とす。今夜、日待の席に行き取持がほして両人を撃つべしと、真部助兵衛、真部彌助(其比十七歳)二人を遣はす。脇詰には飯沼四郎兵衛、山崎図書助、林五郎兵衛、能須吉兵衛、谷川三郎兵衛などとぞ聞ける。
其日の申の刻に植松備後守、平賀より宮の下の宅に帰る時、大井の婢女の水汲に遇ぬ。婢女が下僕に向て云く、大隅殿こそは成就院に入せ玉ふと云ふ。備後聞て即ち北堀の内、成就院に行く。寺門の内に相待つ者十五人あり。待設て切てかかる。備後、七十二歳なれども奴原とて伐結び八人に手を負せて討れぬ。下人二人も働て死す。其時、真部助兵衛(守政と云)、大隅を伐る。大隅が近侍、武藤武林と云剣術者常に傍を去らず、武林即ち助兵衛を伐る、死せず、真部彌助武林を伐る、伐られて打かくる太刀にて彌助が耳を伐落す。著込にて懸留して死せず。植松右近が子、六郎太郎、成就院に事ありと聞てかけ附けるが中途にて林、山崎、能須、谷川、飯沼五人に行遇ひ散々に伐結び上下十四五人と戦て多兵に手を負せて討れぬ。夫より備前方者ども悉く作山の城に入る。大隅守が子、太郎左衛門は勝賀本城の代主也。是れも備前方の者、里城の事を聞ば太郎左衛門を討べき約をなして居たる所に、大隅守が下僕一人、城内に走入る。門番押へ留る所に備前守が謀反に由て大隅殿を撃たる也と山中を響せて呼はる故に、太郎左衛門も恙なく勝賀の城を持て固む。
其明る日、植松氏族五百余人、作山の城に取寄せ、上の山と云ふ所より大筒鉄砲を仕かけて打破る処に、城中より言葉戦ひをなす。備前が曰、伊賀守殿盲目し玉はば早く隠居あって千虎丸殿家督し玉ふべき事は勿論也。当家の者、誰かこれを欲せざらんや、大隅守は当家を破滅するの賊人也。これに因て我が忠節の働をなす。今ここに於て千虎殿を亡さば香西氏の断絶今日にあり、当家の恩を食む者はここの程を思ふべしと云ふ。互の返答あり。然れども扱をなさしめ千虎丸を城より出させて後、ともかくも計ふべしとて、先づ陣を退け地蔵院良運法印を以て扱をなさしめ千虎丸を渡し、備前父子は佗国へ引退べき由を約し扱の事済(ととの)ひぬ。
其明日、舟を用意し本津より出船して備前の内、中の島へ渡る。千虎丸は船に乗て後に帰らしむ。大隅守、備後守が男子ども、舟拵して押渡り父の讐を討んと云ふ。良運法印大に怒て曰、予、当家の難を救て扱をなし漸くに無事なる処に皆我が弟子どもとして師匠を破戒の僧となすか、努々(ゆめゆめ)叶べからずと制して止ぬ。其後、島より帰参を希ふ。旗下の諸将、評議して植松氏族中に諫言して曰、各父の讎はさることなれども今、土佐の大敵、阿波讃岐に競望して国家の諸人、薄氷を踏むが如し、私の遺恨を捨て家々大事を慮るべし。明日にも出陣と云はば大隅守備後守はなし、植松右近は才なし、其外は皆若手なり。伊賀守殿の名代を務べき人なし。備前守を召返へされて陣代を成しむべしと各頻りに制しける。植松家の者ども談合して曰、彼父子の者、佗国に行ては寇を報ずる事難からん、国に返さんには如じと内談して各の言に任せて和平し国に帰らしむ。 (香西氏臣、権威を争ふの記;巻之十)
南海治乱記・・・天正六年正月、十河存保、阿波国に帰り三好家を継で讃州の兵将に書を贈て曰、今茲に我信長の命を受て阿波の守護職と成て下向す。讃州阿州は同胞の国也。往年の遺恨を捨て倶に力を合て国を保べき也。更に私の事に非ず、数代相続する所の国家の為にして累代の先祖へ孝行也と云送らる。故に諸家より使者を以てこれを賀す。香西伊賀守より植松帯刀(幼名久助)を以て使者とす。其後にて騒動あり。諸家より存保に註進す。存保即ち帯刀に告る。然して植松備後守、七十二歳にして敵十五人に深手を負せ討れぬとあり。是は貴方の為に何人ぞとあり。帯刀が曰、それは我が父にて候と申しかば座中の人々、皆帯刀が顔を見たると也。夫より存保に暇を乞ひ日に継で馳帰り松縄手の城に入り、母方の祖父なれば宮脇兵庫が兵二百余人を合て作山の城に向ひ、上の山より鉄砲を放て攻落んとす。地蔵院と宗玄寺の取扱にて無事をなす半なれば、両僧より制して止ぬ。此帯刀は人才と云、勇剛と云、人に勝たれば氏族の棟梁として諸人信用す。然るところに天正十二年、不幸にして早世す。世人皆、惜しまずと云ふことなし。 (阿波讃岐の兵将、三好存保に属するの記;巻之十)
世に言う「成就院事件」である。当主の香西伊賀守佳清は元亀二年、大坂福島城で痘瘡に罹って盲目となり、香西大隅守資教と植松備後守資正が輔佐をしていた。どこか専断的なところがあったのだろうか?香西備前守清長、六郎父子や真部一族(備前守の姻戚)は、佳清の弟の千虎丸を守り立てて佳清を隠居させ、当主に据えようと目論んでいた。嘗て小早川家で盲目の繁平を隠居させて毛利家の隆景を当主に据えた先例があったからである。しかし、この2つのクーデターで根本的に違うところは、香西家には後ろに毛利元就などの大きな黒幕がいなかった点である。いや、いたのかもしれないが今となっては歴史の闇に消えてしまい真実を知る事はできない。佳清は考える・・三好家では新しく十河存保を当主に迎えたが、先年攻め込まれた三好長治に抵抗してオレは信長に靡いたのに何故、弟の存保が信長の手先となって戻ってくるのか?・・おまけに舅の羽床資載は元吉合戦で、オレの意に背いて三好側で甲斐々しく戦っている・・気にくわない!と言う訳である。佳清は身体の不自由さもあって結構頑固な性格であったらしく、それが却って偉丈夫に見えることもあり彼に靡く家臣も多かった。大隅守や備後守もそうした佞臣で、備前守は今のうちに何とかしないと三好と一丸となって元親と戦えないという焦りがあったのかもしれない。そう考えると続いて起こった羽床妻の離縁にすんなりと連結できるようにも思うのだが如何だろうか?黒幕は羽床資載であったのかも?・・・残念ながらクーデターは完全な失敗に終わった。本城を掌握できなかったのは致命的であった。佳清を押さえる事もできず、大隅守嫡男の太郎左衛門も、備後守次男の帯刀も無傷で翌日には大義名分を立てて弔い合戦にかかったのであるから計画性に欠けた余りにお粗末な反逆であったと言えるだろう。結局、香西寺の良運法印の仲介を入れて備前守一族は備前中島に退去した。備前守父子はすぐに帰参が叶ったが周囲と気まずい雰囲気なのは如何ともし難く、同年6月の存保の重清城奪還作戦に際して最前線で奮闘し父子ともに戦死した。覚悟の死であったのだろう。備前守の娘は三谷出雲守長基に嫁いでおり、一女(月照院)が、一族郎等が備前に退去した時に従って宇喜多家の侍女となった。その後、結城秀康に見初められ側室となり松平直政を生んだ(⇒❡)。直政は松江藩の越前松平系初代藩主であり、後の松平不昧公に繋がっている。三谷家はその代々家老として出雲で繁栄し、備州香西家もそれに列したから、家門の栄枯盛衰というものはどこでどう転じるのかわからないものである。なお、事件の場となった成就院は、当時「北堀の内」にあった藤尾八幡宮の別当寺で、藤尾城築城に際して八幡宮脇に移され、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。「玉藻集」では「寶持坊」となっている。