南海治乱記・・・天正六年の夏、大西上野介が計を以て讃州藤目城の城主、斎藤下総守、土佐方に服従し其孫を人質として大西の邑に遣と聞へしかば、鵜足、那珂二郡の旗頭、奈良太郎兵衛尉勝政より阿波の三好民部太夫存保に達す。存保即ち鵜足、那珂二郡の兵士に綾郡の兵将を加へて三千余人、西讃岐の香川三千人と陣ぶれを以て藤目の城に発向せしむ。此の藤目の城は真野郷七ヶ村の内に本目、新目、藤目、山脇とて阿波の大西の邑に隣して七里の山越也。斎藤氏は細川家の時より此城地を賜て世々相続せり。今の下総守は大西上野介が縁者たるに依て土佐方に服さする程に、鵜足津聖通寺山の城主、奈良太郎兵衛は三郡の兵三千余人を揚て長尾大隅守、羽床伊豆守、北条香川民部少輔を先手として藤目の城に取り寄る。城主、下総守、土州桑名太郎左衛門、元親の小姓與(くみ)濱田善右衛門尉を頭として凡そ一千余人を入置けれども寄手大剛の兵将四人、大兵を挙て攻寄れば相守る事を得ずして城を明渡し阿州大西邑へ兵を引て還る。奈良太郎兵衛尉、此城を得て溝壘を修覆し塀樓を造作して新目弾正に与へ、斎藤氏が所領を弾正に加増し、逞兵を勝て五百余人込置き、兵を引てかへる。
其後、大西方にて評議して曰、今度、藤目城後詰の事、難所故に遅くして敵方へ取返され、他国の聞へも遺恨なれば、急ぎ打立取返べしとて、五千余人を以て同年冬、雪中を分て山脇越をして陣す。新目弾正、番手の武者に下知し山下へ出て切所を取り、詰り詰りに引懸けて鉄砲にて打立べしとて百余人指下し兼て拵置たる切所へ引付て若干打落と云ども、寄手の大軍頻りに攻寄来ければ城中へ引入る。元親則ち山下の家宅を放火し、城の攻口を定て攻具を用意せしむ。元親の曰、城攻に兵衆を損するは不覚也。松茸尾より仕寄を附け、井楼を組上て城中を見下し鉄砲火矢をかけて攻べしと下知せらるる処に、元親の小姓與濱田善右衛門、一手の者ども申やうは、去る夏、兵衆少く後詰遅き故に城を明渡したる事、遺恨也。今後の身方に敵を較れば、茶の子にも足らず(四国には茶受の食を茶の子と云)、然を延々の沙汰に及んで四方の敵、後詰をなさば弓矢の果敢行べからず、是非御先手を奉て攻寄んと乞ふ。元親、これを赦す。濱田善右衛門、進んで下知する所を鉄砲にて打落す。組子猶々進んで攻め寄れば、諸口一同に喚呼(おめ)いてかかる。城中、新目弾正、一国に隠れなき勇将也。五百人の士卒も逞兵にして鉄砲の上手なれば詰替詰替打ほどに矢庭に百余人打落て、から堀の中に埋み、兵将光富十市を落す。元親已むを得ずして麾(さい)を取て揉立揉立攻寄れば、鉄砲の音、鬨の声、天地震動す。其の夜半を過て塀の手に攻寄、熊手を懸て引崩し入乱れて攻戦ひ、其夜の明方に城兵五百余人、一人も残らず討死す。攻手も鉄砲に当り兵刃にかかり七百余人戦死す。先達て土佐の兵、藤目の城を茶の子と云たるを難じて、郷人とも小歌に作て、強飯(こわいい)茶の子、強(こわ)い茶の子じゃと諷しける。元親、始の法度には違ひ落城の後、気味善々善々と悦玉ふ。さて此城は斎藤下総守に還附せしめて加番の兵を込置き、是を讃州入の始とす。今度、此城攻に戦死の者どもを吊(とむら)はせんとて、大西邑より貴僧を招請し、八木大分出して僧に与へ死亡の者を吊す。是、戦死に報ずるの志と云つべし。此時、香川信景は三好存保の催促に応ぜずして兵を出さず。今度、藤目の後詰めをせんとて奈良、羽床牒合せしも相与ず、何さまに香川氏挍(かんがふ)る所有んかと云合りけると也。 (讃岐藤目城主、土州元親に服従の記;巻之十)
長元物語・・・・一.讃州の内、斎藤下総守の居城藤目と申すを御攻落し、御近習の衆を御入れ置きなされ、濱田善右衛門を物頭に仰付けられ御帰陣の事。
一.元親公御帰陣間もなく、讃岐衆催して、藤目の城を攻むる故、持ちかかゆる事なり難く、城を渡し、皆々帰りけり。
一.元親公、又讃州へ御出馬。藤目の城矢懸り近き松茸尾と云ふ山へ御取上り、案内者に様子御尋の時、歴々の大将籠たると申上る。それとしも、兎角夜に入り乗るべしと、諸陣にその旨御触の時、濱田善右衛門并びにその跡の侍共、最前の耻をすすがんとや思ひけん、夕日山の端へ一町計も残る時、善右衛門も、相組も、下知に背きて、この城の木門口へ懸りたるを、城中より鉄砲にて悉く討伏せる。是をみて惣人数、日のある内に掛る故、歴々の名を知る侍、手負死人限りなし。光富十郎も討死。然れども寄手、手負死人を頼みず、火水になれと攻る。元親ざい(采)を取りて下知なされ、もみ立てもみ立て責めける程に、夜半時分乗入りて、則ち御取返し、この城番は定夫に置かせられ、御帰陣なり。 (坤巻)
この合戦は、元親の讃岐侵攻の嚆矢となる象徴的なものである。藤目城の城主、斎藤氏は加賀国より地頭職に任じられて下向した関東武士で、当主の師郷は大西上野介の縁者であったため(縁者になったのかも・・)元親に降伏して人質を送った。鵜足、那珂郡を領する奈良勝政は、「遂に来たるべきものが来た」とその逼迫した窮状を十河存保に訴えたのであった。存保は、直ちに二郡に加えて綾郡の長尾大隅守、羽床伊豆守、北条香川民部少輔(行景)を先手として攻撃を加えた。多度郡の香川氏も最初は動いたようだが戦闘の具体的な記述は見られない。香西氏も参戦した形跡はなく、すでに羽床氏とは深刻な軋みにあったことを暗示している。だが、機先を制した攻撃が功を奏して一旦は土佐勢を追い払う事に成功、同じ那珂郡真野郷の新目城主、新目弾正を配して防御を強化し敵の再来に備えた。果たして土佐軍は同年の冬になって元親自ら5千の兵を率いて大挙して再攻し、新目弾正は鉄砲を使用して濱田善右衛門を打殺すなど奮闘したが、次第に追い詰められて翌日になって玉砕した。その激戦の様子は「鉄砲の音、鬨の声、天地震動す。」という表現に凝集されている。この戦闘で新目方500人、土佐方700人が戦死したというのだから、多少の誇張はあったとしても讃岐の戦国史上でも3本の指には入る死闘だったと言うことができよう。ところが、この藤目城、所在地に2説あって、今に結論が出ていないのである。最も有力な説は、豊田郡紀伊郷(現在の観音寺市大野原町)の粟井神社周辺とするもので、資料(⇒❡)によると、「斎藤氏6代国重の時、天正4年に長宗我部元親の侵攻を受け国重は戦死、それでも長男の重之の奮戦で撃退した。天正6年になって再度の侵攻があり城兵はよく守ったが、偽の和睦を信じたために侵入した敵兵に放火され落城、重之も切腹して果てた。」とあって、治乱記の伝える所とは随分と話が違っている。一方、治乱記には那珂郡真野郷藤目(現在の仲多度郡まんのう町(旧仲南町))と明記され、「全讃史」や「讃岐名勝図絵」などもこれに従っている。小生は、おそらく土佐軍は大西に近い箸蔵越あるいは昼間山越から最短で讃岐に侵入し、塩入付近の那珂郡内で合戦に及んだものと考えているので、後者の仲南藤目城説を取りたい。なぜなら、同じ郷内で地利に詳しい新目弾正が城代に任命されたこと、那珂郡での戦いなので奈良氏が先頭に立っていること、長尾、羽床氏との距離も近いこと(後年の高篠の戦いと同じ状況)、藤目城を落とす前に側面の財田城を攻めていること、香川氏が参戦しなかったのは、領分の多度、三野、豊田郡内でなかったこと(すでに土佐との談合があったので当然ではあるが)、などが明確に説明できるからである。しかし、それでは藤目城はどこか?と問われると、残念ながらそちらは明確に答えることができない。現在の仲南町十郷大口付近とされているが、「西讃府志」の地誌の項に何の記述がないのも不思議である。讃岐戦国史の大きな謎のひとつだけに一刻も早い解明が待たれるところである。なお、最近の調査状況は、香川県立図書館レファレンス共同データベース(⇒❡)に記載があるので、参考にされたい。