南海治乱記・・・天正六年の秋、土州元親、五千余人を揚て讃州三野郡財田に発向す。此の財田の地と云は、阿波の大西に隣して西讃岐の固め也。此地を得るときは讃州に入易し。大邑二十五ヶ所あって山川の固めよし。元親、是を得んと欲すと云へども、旗頭香川四郎の領主にして武勇も竟に不覚の名を聞かず。香川氏、此の財田に後詰して深谷に守合ふ時は大西より他方に出る事を得べからずとて暫く時勢を覘(うかが)ふ処に、同所藤目の役に香川後援をなさず。元親、其の形勢を察して財田に出陣す。案の如く香川、援兵を出さず。財田和泉守、勇猛などと云へども僅に二百余人を以て大敵を禦ぐことを得ず、荐(しきり)に援兵を請ても香川、兵将を出さずして財田の地を守ることを得ず。和泉守、我兵士を奮発し死戦を致て一生を得べしとて一方を打破りて圍を出る処に、土佐方、横山源兵衛尉、財田を取る。財田が家人、横山を撃て退く。横山が子、跡より来り父が討れぬるを聞て、其敵の退たる方へ追て行き、父が寇ぞと詞をかけて戦ひ竟に其敵を討ち、頸を取て帰る。其年十八歳也。諸人、冥加の武士也と感ず。元親、即ち其城を取り、大西より取りつづきを能し、中内藤左衛門尉組与力ともに入城せしめて師を還へす也。 (土佐元親、讃州財田に発向の記;巻之十)
長元物語・・・・一.讃州へ元親公切々の御出馬、方々御働きゆへ、城持降参に出るもあり、切腹もあり。財田が城を攻める時、横山源兵衛、財田和泉守殿を討って首を取る所を、財田殿の侍来て、主の敵のがさじとて、源兵衛を討取り退く所を、源兵衛が子、その所へ来る時、敵退たれば、力なく十方を失ひける所に、傍輩の中より慥にあの山へ退くと教へける。その間一町計あり。源兵衛が子、親の敵返せと詞をかくれども、きかぬ躰にて退く。近くなるに及びて、やさしやと取って返し切合ける。源兵衛が子終に敵を討って二人の首を取る。その時は十八歳、薄手もをはず、即時、親の敵を討つ事冥加ものとて、諸人誉むる事。(坤巻)
天正6年夏、藤目城を奪還された元親は、まず、藤目城近くの財田城(本篠城)の攻撃にかかった。事前の和睦や降伏交渉があったとは思うが城主の財田和泉守常久はそれに応じず、主君筋の香川元景もすでに我が方に通じているので援軍はしないだろうと元親が判断したためである。あるいは香川元景より降伏するよう勧告されたが、財田の城は南北朝時代、南朝の財田左兵衛頭義宗と小笠原義盛が細川氏に対抗した一族の誇り(⇒1337年)が他国者の侵略を容易に許さなかったのかもしれない。和泉守の再三の援軍要請にも香川氏は動かず、那珂郡の諸将も香川氏の領内の事ゆえ同氏の要請がなければ迂闊に介入できない事情もあって、藤目城とは指呼の間にありながら切歯して傍観せざるを得なかったのである。かくして、そんな絶望的な状況でも和泉守はよく奮戦したが衆寡敵せず、遂に土佐方の横山源兵衛に討ち取られた。横山は財田の家臣、秋山主水に討たれ、主水はまた源兵衛の子に首を取られた。後年、新開道善が丈六寺で謀殺された際、道善を討ち取った横山源兵衛はこの子である。この時は道善の家臣、松田親兵衛が源兵衛を討ち、新兵衛はまた源兵衛の甥の八兵衛の鎗に倒れる。お互い討ちつ討たれつ、何かの因果を感じさせる逸話ではある。本篠城を攻略した元親は冬に至って再度、藤目城に猛攻を加えて陥落させるに至る。讃岐侵攻のために強固な陸の橋頭堡がここに確保されたのである。二度の激戦を蒙った本篠城は藤目城と違ってよく保存され、麓にある財田和泉守の墓も香華の絶えることはない。主君や友軍に見捨てられた孤軍の中で、潔く義に殉じた彼の名前は千載の時の流れを越えて今も人々の心の中に生きているのである。