南海治乱記・・・天正六年夏、香西伊賀守夫妻の間不和にして妻女を羽床へ送しむ。羽床伊豆守大に怒て旗下を手切し、南條北條二郡を合呑して自立せんとす。伊豆守に男女五人あり。一女は瀧宮豊後守が妻、二男は忠兵衛資治、三女は香西伊賀守が妻、四男は彌三郎資吉、五女ある也。香西伊賀守が妻離別の後、伊豆守思らく、瀧宮豊後は我が婿なりと云へども伊賀守を捨て我に與する者にあらず。彼が備をなさざる先に是より取かけて柾木の城を陥すべしとて、兵士三百余人、羽床忠兵衛を大将として朝がけに襲来す。敵近々と寄れども物音もせず、家人馳来りて敵近々と来候と申す。豊後守、楼に上て見れば案内者と見へて前後に手配して寄る。内室も楼に上りて敵を見て曰く、不思議なり、此兵は我が父の武者ども也。あの大将は我が弟の忠兵衛也。不憫には思へども敵なれば免ずべからず、あの黒介の武者を打べしと指図して豊後守に打せしむ。中矢(あたりや)して馬より落る。兵士みな大将を打れて力なく其尸(かばね)を舁(かつ)いで退去す。豊後守勇才を兼たる良将なれば伊豆守が気象を察し、速に柾木の城を去て香西の城へ引退く。家人追々に来つて資財を少々荷擔して去る。

さて、羽床伊豆守は残念を含み、豊後守を殺して忠兵衛が死に報ぜんとて我が手下の兵将、山田彌七、陶部畠田の者まで馳加て八百余人を以て柾木の城に攻寄る。豊後守は時を移さずして早速に城を明け退たる故に死亡を免る。是よりして羽床香西鉾楯に及べり。羽床と柾木とは行程一里にしてさし渡し二十町も有なん、なれば速に去たるは最も好し。婦女の貞心も亦、勇将の女なれば父の血脉を継たる故なるべし。畢竟して伊賀が無智より出る所也。  (讃州香西家内乱の記;巻之十)

 

 

国訳全讃史・・・松崎(柾木)城:瀧宮豊後守之に居りき。長尾氏の譜に云く、天正七年七月、土佐元親、阿の重清城を攻むるに託し、長尾氏を誘ひて之を滅せり。九月羽床氏をして松崎城を攻めしめき。時に萱原対馬と云ふ者、楼に登りて大声して曰く、今日の戦、彼我他に非ず。不義の利を貪って笑を後世に貽すこと勿れと。長尾孫七之を射て、一箭にして即ち顛へる。大林丹後、秋山越中、手を揚げて大いに之を賞せり。大将羽床忠兵衛、旗鼓を進めて之を攻むること大だ急なり。豊後守、彌十郎堪へずして、香西に向って奔り、其の後忽にして流矢ありて、忠兵衛の胸を貫ひて斃せり。人皆長尾越中を誘殺するの報と為せり。此の師や、後藤筑後も亦死せり。羽床氏大いに名士を失ひしと云ふ。城山按ずるに、治乱記此の師を以て、羽床氏の女大帰の故と為せるは、大だ軽率なるに似たり。故に今は取らず。

 

 

玉藻集・・・・・天正六年十一月、羽床伊豆守息女、香西伊賀守嫁しけり。其姉は香西の旗下瀧宮豊後内室也。二男は羽床忠兵衛、三女は香西伊賀守内室也。其時伊賀守十六歳也。夫婦中如何有けん、天正七年三月離別有て羽床へ送り給ふ。輿添に行たる者共、恐て羽床へは行かず、瀧の宮に輿を捨置て迯帰ける故、豊後方より羽床へ送り届たり。時に羽床、大にいかり、以来は香西と取合を初め申すべし。然ば瀧宮豊後は香西の旗下なれば、豊後も香西を恐て妻子離別すべし。先ず瀧の宮へ取懸、間崎の城を攻落せとて、羽床忠兵衛に三百人勢を指添て向はしむ。既に間崎の城に攻寄ければ、豊後見て、唯今敵ヶ様に寄来べき事思ひも寄らず。香川よりはせまじ。長尾にて有らんと思ふ所に、内室矢倉にあがり敵を見て申させ給ふは、不思議也、此敵は我親の勢也。此大将は我弟、羽床忠兵衛也と云ふ。器量と云ひ、惜き者なれ共、敵と成て向ふ上は遁すべき事に非ず。あの黒具足の武者を討せ給へ。是こそ羽床忠兵衛にて候と、豊後に指図して鉄砲にて討せたり。只一はなちに打落しければ、羽床方、大将を討れて力なく、死骸を取て泣々羽床へ引にけり。其より瀧宮豊後、小身なれば羽床と纔かに一里隔て居住成り難くして、香西へ引取にけり。豊後内室、誠に貞女也と其の沙汰に及べりと云々。

 

 

          巷説では、娘を離縁された資載が、その腹いせに瀧宮豊後守を攻撃したとされているが、治乱記にあるように「瀧宮豊後は我が婿なりと云へども伊賀守を捨て我に與する者にあらず」と状況を冷静に判断して行動しているのがわかる。「玉藻集」の記載はさらに一歩踏み込んでいる。香西本家と仇敵となった以上は迅速に駒を進めておかないと逆に攻め込まれる危険性があったからで、おそらく資載は、成就院事件を通じて瀧宮豊後守や瀧宮彌十郎(瀧宮城主、後に再び羽床方に)、香川民部少輔などは佳清派であると見なしていたのであろう。羽床氏が早朝に静々と押し寄せる様子や、我が弟を討たざるを得ない姉の心境などが臨場感豊かに描かれており成資の筆が冴える一節でもある。嫡子の忠兵衛を失ったのは思わぬ痛手で、資載の悲嘆も如何ばかりかと思いやられる。その後、資載は十河攻めの陣中で病没し、次男の資吉も九州の戸次川の激闘で戦死して羽床氏嫡流は滅亡するのであるから、戦国の無常とは言いながら甚だ愍然たる心持ちとなる。一方、「全讃史」では、また違った歴史を伝えている。長尾大隅守高晴は羽床氏とともに三好存保の意向に従っていたが、天正7年の高篠の戦い以降、元親に降参し、その後、重清城の合戦で元親に謀殺されたという。重清の戦いは天正6年の話であるから時系列の誤りがみられるが、長尾氏が早い段階で元親に殺されたとするのは史実かもしれない。長尾城は元親の讃岐侵略の拠点として整備し国吉甚左衛門親綱が配されるのであるから、元城主の長尾氏などは邪魔者以外の何者でもないからである。「西讃府志」にも同様の記述があるのは興味深い。「全讃史」では、柾木城の攻撃で忠兵衛を失ったのは、長尾氏謀殺の報いだというのだから、元親が、降参した羽床氏と謀って長尾大隅守を殺したのかもしれない。となると、柾木の戦いは、少なくとも天正7年夏以降ということになるのだが・・・。「玉藻集」でも天正7年3月以降の事とし、最初に豊後守が、てっきり長尾氏が押し寄せたと勘違いしたという記載とも何となく符合するのである。後考を待つことにする。

 

 

 

 

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