南海治乱記・・・天正七年讃州香川信景も元親と和睦し、其夏同州羽床伊豆守も元親に降し三好存保頼み少く成りしかば、阿州岩倉の城主、三好式部少輔何とぞ一廉の働きをなし元親に称美せられんことを思ひ同年十二月廿六日、森飛騨守、矢野駿河守、三好越後守方へ使者を以て申すやうは、此の岩倉は三好家累代の家臣と云ひ同姓と云ひ先祖の本地と云ひ存保公へ違変仕るべき仔細なしと云へども、近年土佐方の勢ひに依りて已むことを得ずして降しにき。明廿七日、土州の番兵引退くべき由を申す。是まで兵将を指向け玉はば、我裏切すべしと申遣はす。各是を聞きて同心し、誰も左こそ思ふべきことなれとて森飛騨守、三好越後守、矢野駿河守、河村左馬助等俄かに兵卒を整へ廿七日の早天に岩倉の城に向ふ。城中には兼ての方便なれば城を出でずして敵を引付くる。此城は、北は峻高の山にして南は大河切所也。川と城の間へ敵を入立て合戦を始む可と相待つ所へ案の如く城の町へ焼き入る。昨日の手合の事なきを不審に思ふ所に、其兵半分程川上の方へ攻上りたる時、煙下より兵を下し鉄砲を以て打立つる。身方、跡より崩立て川上へ上りたる兵みな川へ追入れらる。大軍乱れ立て止べきやうもなく岩倉の城より半里ばかり川下を渡り引取る所に、脇の城は武田上野介が守る所也。土州の加兵、大西上野介が兵も此城に居たりしが、早淵柳原に出て兵を伏せ三好家の兵将を見知りたる者を附置きて、それそれと指差して矢野駿河守、其子太郎次郎、森飛騨守、此の三人を鉄砲にて打落す。伏兵起し立てて伐かかり大分の兵を討取る。右三人の外頭人には三好越後守、河村左馬助も討たれければ思ひ切りたる忠臣は残り止まるべき気色もなく戸井新右衛門、鴨島六之進、久須米与兵衛、川島兵衛進、麻植志摩守、内原菊太夫、飯尾久左衛門等の義士数百人は面もふらず戦死す。
其翌日、岩倉式部少輔より大西白地元親へ首註文を贈る。元親悦んで使者を以て寵賞す。岩倉の家臣、美間蔵人は矢野駿河を討つ先登なれば感状に添へて熨斗付の刀を賜る。同大嶋丹波守は秋月某を討つ。土佐小姓與、山本藤右衛門は森飛騨守を討つ。此二人には兵将を討たる褒美の感状を賜る。三好存保は岩倉を謀られ矢野父子、森飛騨守、河村左馬助、三好越後守八人の忠臣を失ひ、次第に弓箭弱りて滅亡に向ふ。一宮成助は去去年の秋より山中に入りて居たりしが、三好方の忠臣討たれしと聞きて一宮の城に帰り入る。元親、大西を居城とし山分を取固め里分へ挙働きをなす故、三箇国の者どもは巣穴の地を奪はれて頼む所なきもの也。 (三好家忠臣戦死の記;巻之十一)
三好記・・・・・脇の城をば、武田上野亮守護して在住す。三好山城守は、河内国高屋の城を預って彼地に居住せしに因り、阿波の国の領地、岩倉の城は美間・三好二郡の簱本たるにより、嫡子徳太郎守り居らしめ、甥の横田内膳正を添へ、塩田若狭守・父塩田左馬亮入道一閑は、三谷の城に居住す。然る処に人々近年三好の恩顧を忘れ、土佐方へ与するに因り、各其旨に同じければ、土佐方より番手に加へて、脇の城に置きける。然れば三好家へ日比の宿意を散ぜんため、西林村の三橋丹後守・同常陸守兄弟の侍共、窃に岩倉へ相談ありて、天正七年十二月廿六日に、森飛騨守方へ、岩倉の城に居住せし三好徳太郎、使者を立てて申しけるは、岩倉は三好家累代の家臣にて候処に、近年土佐方へ降参の仕儀、如何に候。然れば明廿七日の早天より、土佐勢本国へ引取る由風聞候間、御人数を是迄指向られ候はば、御味方仕るべく候と、憤を含みて申越されければ、森飛騨守・三好越後守・矢野駿河守・河村左馬亮、各尤も至極と同じ、俄に用意して人数を供し、廿七日の早天に、彼地に趣かれける処に、方便事にてや有りけん、脇の城より究竟の射手共、さしつめ引詰、化矢もなく射懸けたり。鉄砲の上手共透間もなく打ち懸けける程に、数百騎の人数、山の下道の事なるに、茨枳の中共云はず、人雪頽をつゐて崩れ懸ければ、人数を立て直さんとするに道細く、先へ進まんとすれば、味方手負ひて進むことを得ず、為方を失ふ処に、城の内より歯むいたる兵の、数百騎切って出て、こ手の鏁のちぎるる迄、目釘もをれよと戦へば、味方の勢も遁れずして、爰を専途と戦ひける。心は猛しといへ共、時移るまでの戦なれば、なじかは忍ぶべき。矢野駿河守は、城中の侍加藤主水正と馳合ひ、鎧の袖を引違へ、むずと組むと見へしが、主水が刀や剛かりけん、駿河が首をかき落し、止まる物は名ばかりなり。宇山孫市郎重近と名乗りて、河村左馬亮にかけ合せ、互に太刀打合すと見へしが、光の下に河村が首は落ちけり。森飛騨守は忍ずして、太刀抜き持ちて懸りけるを、美間助七直次と名乗りて、横合に懸合せて、終に首を打取りける。三好越後守も討たれ、大将残らず打死しければ、残り止むべき気色もなく、思ひ切つたる兵、戸井新右衛門・鴨嶋六之進・久次米与右衛門・川嶋兵衛進・麻植志摩正・内原菊大輔・飯尾久左衛門、其外勇める義士数多討死しければ、敵方の者や書たりけん、
もりて名の隠なかりし弓取が 敵のひたちにうたれぬるかな
根なき矢の駿河が運のつき弓を 加藤主水が打止めぞする
きをゐくる浪の白旗さす敵を うたれて名をば流す河村
かけ引を三好越後の勝時が うたれて後はまけ時となる
と戯れける。去る程に一宮成助は去々年の秋より、山中にありしか共、諸大将討たれ給ふ由かくれなかりければ、翌日一ノ宮に帰城せられたりと聞へし。 (脇之城軍の事(付けたり)飛騨守・越後守・駿河守・左馬亮討死の事)
長元物語・・・・一.同国の内、岩倉の城、土佐より元親公御馬を出され、御責落し、この城に桑名弥次兵衛物頭にて、御手廻の衆仰付られ、当分は番持に働くべき風分に付て、加勢御籠め置きなさるるなり。
一.三好殿、家老衆大将にて、人数数千余打出て、岩倉の城近辺在々池田、ひるま(昼間)、その辺焼働して、岩倉の城より半道川下の瀬を渡り、引取る所を、岩倉の城より出て、川溝・ささぶ木・柳原の中に鉄砲をふせ、白地の城主大西上野守人数も、此所にふせて、三好殿の大将を見知るもの、それそれと指をさし、矢野駿河・同嫡子太郎治郎・森飛騨、この三人をねらひ、数人鉄砲を打掛ける故、馬上より三人の大将を討落す。伏勢切掛り大分討取る。この時、飛騨・駿河両人の功者相果てるに付て、正安の御家弥危くまさりけると取沙汰す。
天正6年に十河存保が重清城奪還に失敗して1年余、土佐方に下った岩倉城主の三好徳太郎や脇城主の武田信顕は、元親に気に入られようととんでもない計画を実行に移した。徳太郎が三好方の矢野駿河守国村(讃岐引田城主)や森飛騨守(渭山城、切幡城主)、三好越後守勝時などに、「明日、岩倉城に駐屯する土佐兵が引き上げるから協力して討ち果たそう。」という偽の書状を届けたのだ。敵の下ったとは言え、長年厚誼を続けた三好の同族であるからよもや罠とも思わず、国村らはさっそく岩倉城に押し寄せたのである。ところが城中からは鉄砲で射撃され、混乱して退く所を今度は脇城からも鉄砲で狙い撃ちされて三将を始め多くの武将を失ってしまったのである。「三好記」では射殺ではなく、それぞれ相手と渡り合って戦死したと伝えているが、鉄砲で手負いしたところを容赦なく討たれたのかもしれない。いずれにせよ、三好家がひとつに纏りかけた時に起こった突然の惨劇で、三好方は一気に貴重な戦闘力を失ってしまった象徴的な時変であった。しかし、この騙し討ちの首謀者は本当に三好徳太郎だったのだろうか?「長元物語」の「岩倉の城、土佐より元親公御馬を出され、御責落し、この城に桑名弥次兵衛物頭にて、御手廻の衆仰付られ・・」という記載や、「三好記」の「然れば三好家へ日比の宿意を散ぜんため、西林村の三橋丹後守・同常陸守兄弟の侍共、窃に岩倉へ相談ありて・・」という下りから、天正6年の“重清の陣”(⇒❡)で降伏した徳太郎はすでに桑名弥次兵衛などの監視下にあり、西林城の三橋兄弟が発案した三好方武将の一挙殲滅案を岩倉城の(桑名らに)相談し、徳太郎は偽の書状を強制的に書かされたとするのは如何だろうか?「阿波国徴古雑抄」によると、武田信顕が滅ばされた後の脇城に「三橋丹後守、元親同姓新左衛門親吉ヲ置」と三橋氏がチャッカリと収まっているのも些かの怪しさを感じさせる。徳太郎も、籠絡されたとはいえ長年の親しい同族を多く殺した罪は万死に値するが、父の笑岩に諫められて再び三好家に寝返り最後は狂死したとも伝えられるのは、偉丈夫な父を持つ御曹司特有の気の弱さから深い良心の呵責に苦しんだ結果かもしれず一抹の同情は禁じ得ない。なお、この徳太郎は諱を“康俊”とするものが多いが三好長治に殉じたのも康俊であり二人を同一人物とはし難いために、今後の考証が必要である。「阿波古戦場物語」の鎌谷嘉喜氏は、徳太郎を三好式部少輔盛隆としている。