南海治乱記・・・天正七年春、香川信景と元親和平調ひしかば、其夏、元親五千余人を率し阿州大西の邑より讃州財田に来り、中内藤左衛門の守拒を命じ其子源兵衛も出陣の供奉せしむ。元親即ち香川信景に通じて曰く、今我、羽床に兵を進めんと欲す。貴方の家臣嚮導せしめ給ふべき也。香川即ち三野菊右衛門、河田七郎兵衛に八百余人を附て先登たらしむ。扨又鵜足郡中通口へは阿波の大西より手合せしとて数百人攻入ると聞きしかば、羽床より恒兼三郎左衛門尉を兵将として田根、広袖、平山、内田の寄合ひの兵将三百余人、増須越に出向ひて一戦し追い返す。此口は荷馬通らず、粮米を負ふて来る道なれば敵復たび此口に来らず。然る処に予州の兵将、目取采女、金子伝兵衛、石川刑部、馬立中務、新居、曽我部、前川等三千五百余人を以て馳来り讃州陣の先鋒を乞ふ。元親悦喜して今後の先登を給はる。扨、羽床伊豆は前代より香西氏が陣代として王畿諸国の戦に勇名を顕はし、累世竟に不覚の名を取らず。夫れは兵衆遠陣は二千人、近陣には三千人の軍将として威名ある故に、其節制整治し其権謀時に行はれ其利に因って勝を制す。此度は家運の窮まる所にや、一家の破れ出来て兵衆を総ること多からず、ただ自ら扶助する所の兵八百人のみ也。瀧宮彌十郎、新名内膳等も我が居地に敵を受くる故に手組に加らず。

          是に於て伊豆守、我が同姓の臣、大林四郎左衛門、今瀧左衛門、山田彌七、羽床総五郎等を呼て自ら謀りて曰く、各々我等戦場を踏んでいまだ不足の名をなさず。夫は香西一家の旗頭として出陣をなし敵を破り堅陣を砕きての功名也。今度は香西氏其人に有らざる故に親戚離心し我一人の孤旅となる。敵は土佐長曽我部、三箇国を従へて威を振ふ大敵也。殊に今後は土佐阿波の兵七千人、伊予の兵三千余人、凡そ一万二千人と聞ゆ。其手先に於て我兵千に足らざるを以て、出向ひ合戦せんは時に取りての面目也。何れも皆な我家の者どもは士卒下部に至るまで譜代相伝の者なれば、主盛んとなれば共に栄へ、主滅ふれば共に亡ぶ、死生存亡を諸共にする者共也。今度、我が家の滅亡に向へり、何ぞ一命を愛(おし)みて恥を後世に遺さんや。然れば今度必死の戦をなし三箇国の者共に手並を見せ後世の物語にさせんぞ、と言はれければ各々申しけるは、君はさこそ思し召ん、我が心も同前也。此競来る大敵に向ふて死を一途に窮る時は是非善悪も論ずべからず、何事も君の御心に合ひ御下知に従ひて死を致し満足をなさしめ奉るべし。是唯今まで君臣共に栄へて家を安んじたる御恩の報謝也とぞ申ける。伊豆守聞て喜び、さらば我が家の兵備を定むべしとて、十五以下五十以上の者は大小によらず戦場へは出すべからず、其内、老幼の者、家中の妻子どもに窃かに夜に紛れ中隈と云ふ山中に退けて、村里は百姓ばかりを留むべし。其の老幼の者を以て羽床城を守らしむ。其兵、鉄砲百挺鎗百本也。戦場に出る者六百人、是百人宛六手に分ちて一手百人は鉄砲三十挺鎗三十丁刀三十人飯持十人の積也。百人に兵将一人番頭二人の外には馬上なしともに百二十人馬上三騎也。諸士三十奴僕を連れず、力者三十人は持鎗を持行きて鉄砲を納めたる時、弓鎗等の得道具を取替べき為也。六百人は七百二十人也。大将羽床、馬廻に三十人、凡そ七百五十人は戦場に出る定めにして六人の頭人の宅所にて列をなし法を教へて軍律に従しむ。夫れより昼夜百姓伝を戸聞(とぎき)として三野郡の事を聞しむ。彼方の評定も外へ知る程の事は皆きき伝へて羽床に通ず。是に由て此方の方術を定む。

          然る処に四月廿八日の外聞来りて、明日、長曽我部衆、羽床出陣の触れあり、何時と云ふ事は知らざれど告来る。伊豆守諸将を集め謂て曰く、敵明日此地へ向ひ来るの由を到来す、さぞ有らん、彼が思ふ所は、此方少兵なれば籠城して敵を引請けるにて有るべしと思ひ、うかうかと押来るべし。我先づ仲(那珂)郡に出て彼が来る路程を聞届け半途に於て打破るべし。然る時は敵何程の大軍なりと云ふも、其の切所を取て打たば五百三百に過ぐべからず。是尾を打つて勝ときは敵の大軍を少兵にして勝易きに勝つもの也。故に古き語にも大軍とても懼るべからず、少軍とても侮るべからずと云へり。何ぞ是を敗らざらんや、早く用意せよとて二日の飯を炊せ上下飯を食はしめ腰飯を附けさせ、百姓の内にも強力にして心の剛なる者を飯持として其備を足らしめ、今夕より出でて夜中に仲郡高篠の郷に到りて村陰叢樹をこだてに取りて、旗を臥せ兵を陰にして路次に外聞を遣はし、敵の打立つ次第を見て告来らしむ。

          土州元親、先づ予州の兵将、石川、金子、新居、曽我部、馬立、前川に先陣を賜ふて打立つよし聞へければ、羽床氏、当国不知案内の者共也。必ず勝べしとて一二次第を定めて兵を伏せ相待つ処に、敵は是を知らずして頭を踏つくる程を来て大に驚き、やあれ敵ぞと云ふ程こそあれ、大に混乱す。羽床とき頭を揚げて同音に打つてかかり鉄砲にて打立て鎗にて突立て伐かかる。敵、朝立して未だ敵に逢ふべきとも思ひ寄らざる時分と云ひ、行伍をなして行く中途と云ひ追立られて敗北す。後陣の兵、是を聞きて我方の敗兵を脇に見なして進み来るを、切所を取り虎口として固め居て、能き矢ころになれば鉄砲を放ちかけ進んで突き崩す程に、廿九日の早天より戦を始め日午の終まで八度の鎗を突き皆戦ひ労れにき。敵は伊予の国の名高き石川金子の党類三千五百余人にて羽床は六百余人にて防ぎ留めて戦ひければ、兵を知る程の者は羽床が剛強を察すべき也。

          かかる処に土佐元親七千余人を挙げて押付け、名高き羽床なれば隣国の聞にせんと思はれけるにや、大西上野介を先鋒として二の手に元親自身旄(さい)を取って押かけらる。羽床も大西が旗を見て旗本を以て一戦す。予州衆も透間なくもり返して伐崩し、羽床が陣屯やぶれて敗北す。予州阿州の兵将進み来る。羽床かへして戦死すべきと云ふ所に、羽床に残し置かれたる隠居の老人幼少の者共の内、行步強調なる者どもを選んで陣列をなし、功者の老父ども迎へ備を作て岡田原に打出て旗正々と立並べ堂々と陣を居へて待ち居たり。伊豆守は是を見て色を直し引取る。敵は是を見て逐ふ事を緩くす。岡田原の兵、伊豆守の殿(しんがり)して羽床の城に入る。早や日も昏になりければ元親も陣を止めらる。伊豆守が曰く、新手の兵三百あらば今夜夜合戦をかけて元親が旗本を敗り敵軍を暗撃にして勝を窮むることは案の中也。然れども今日の戦に死を致し残り止まる者半にも到らず、元親は天道に合ひたる大将にて四国軍将の中を出て大功をなす。我武功を立るを云へども終に亡ぶべき也。今夜の夜戦を止て明日降を乞ひ家を起つべき也。今日の戦を見たる者は我を怯とは云ふべからず、小の大に服するは世の習ひ也と申されしかば各々同意して、最の御事に候、此大事に及びては君の命に従ひ一言の思慮を加ゆべからずと申せし如く、とかく君命に従ひて死を致す時季到来と思へば余念を思はず候、今日の死を致したる者共も、生残りたる我々も何の替りたることが有るべき、唯だ後れ先だつ計り也。此戦の起ること私の宿意に非ず、天道自然のことなれば死生存亡ともに私なし。皆、天道の御計らひ也と老人ども申せしかば、伊豆守涙を流し、旁々の心趣左ある故にこそ先祖累代今日に至るまで家門の恥辱を受けず、さぞ太祖白鳥大明神より世々の祖神も感応ましまさん。今日の戦死いまだ分明ならず、事終りて家を興さば不日に賞すべき也とて其夜は各城の持口を定めて止宿す。

          其明る日、香川信景より使を遣はし扱を入れて曰く、唯今、元親四国を平均せらるるの時也。羽床殿一人の身の上に非ず。早く降を乞ひ玉ふべし。本領安堵の事に於ては信景が請合ふ所也と申し来る。羽床返答して曰く、是より降を乞はんと欲する処に使命を承り候。昨日、御旗先に出向ひたるは弓箭の礼儀是迄に候。羽床に於て野心を存すべき事に非ず。元親、先非を赦し玉はば実子を質として土州へ送り和平すべき由を申す。香川信景より元親に達す。元親その勇義を感じて和親をなす。夫れより新名内膳助が籠りたる鷲山の城に取寄せる。此山は土高、虎丸、鷲峰とて国中に三ツの険要也。然れども分内狭くして大身の要城にならず、新名これに居す。瀧宮彌十郎、長尾大隅守、新名内膳助ともに羽床が扱に従ふて土佐方に和平し元親兵を入らる。此時、元親足軽を出し麦作を刈らしむ。其の畠畔を一畔隔てに刈て前後の横畔を枕畔と云ふ。是も其の本畔の通ばかりを刈りて其麦作半分を残す。是、民の作徳と云ふことなるべき也。百姓、是を見て土州の仕置よかるべき也。早く和平あれかしと民より先づ思ひ付きぬと也。  (土州元親、讃州羽床に出陣の記;巻之十一)

 

 

 

元親記・・・・・先づ宝田の城へ差合ひ、羽床表への働の評議あり。この羽床は西讃岐に於て、その隠れなき武篇の者なり。早一里計城本を放れ出向ひて戦ふ。先手大西上野守、宝田の城主中内、予州衆六頭、早朝より午の刻まで懸つ返しつ戦ふ。斯る処簱本を押懸けられ、上野一手鑓を初め、羽床追立てられ、残り少なに打ちなされ、皆城に迯げ籠る。扨て羽床領分残る所なくその日発向す。則ち城を取巻く処に、翌日羽床降参す。則ち実子孫四郎人質に越す。この競を以て新名城主降参す。然る処に新名はその後心替仕る故、重清陣の時腹を切らせらるる。この城は入交蔵人に預けらるる。亦長尾に新城を拵へ国吉甚左衛門に預けらるる。この城を西讃岐にては専用にして、家人の侍百人勝りて甚左衛門の与力に差遣はられたり。  (中之巻)

 

 

 

西讃府志・・・・伊賀氏系図ニ、鎮守府将軍秀郷ノ裔八郎経春トイフアリ、伊賀国片岡ニ居レリ、因て片岡氏と称ス。経春ノ弟七郎高村、伊賀国ニ移リ氏ヲ伊賀ト改ム、高村五世ノ孫大炊頭村信、備前国邑久郡豊原荘ニ住リ、貞治元年細川頼之阿野郡高屋城ヲ攻シ時、細川清氏ヲ討取シ伊賀掃部助高光トイヘルハ、此子孫ニテ、是ヨリ海崎豊前守元村ガ女ヲ娶リ、遂ニ当国ニ留リ、元村ノ子長尾大隅守元高ト共ニ、西長尾ノ城ヲ築テ千八百貫ノ地ヲ領セリ。高光ノ子光信幼ヨリ大隅守ニ養ハレ、父ノ所領ヲ保リ、其子通重左近太郎ト称ス。次子光盛喜総兵衛ト称す。光盛ノ子高通伊賀彦右衛門尉ト称ス。後左衛門ト改ム。

           天正七年四月二十七日、長曽我部元親長尾ニ寄ントス。長尾大隅守麓ノ川を越ヘ、向ヒノ岸ニ陣ヲ取リ、芭蕉ト云ヘル処ニ兵ヲ伏テ相待シニ、明日二十八日早朝土佐国軍襲来リ、備ヲ立ントスルニ、長尾方俄ニ起リテ相戦フ。続テ芭蕉ノ兵振ヒ進テ攻立ルニ、土佐方傭ヲ乱シテ馳奔ル。高通ノ子片岡九郎兵衛高好、敵ノ大将大山孫九郎ト渡合、互ニ鎗ニテ相戦フ。高好遂ニ大山ヲ馬ヨリ突落シ、鎗モテ押フセ、家人ニ仰テ其首ヲ取ラシム。二時バカリノ戦ニ土佐方多ク討レテ櫛無村ニ引退ク。大隅守羽床瀧宮ナドヘ此由ヲ告テ、二十九日ノ夜軍ヲ率テ高篠村ニ陣ヲ移ス。時ニ土佐ノ軍追々馳加リ、櫛無山ニ陣ヲ張ルト聞テ、此夜彼陣ニ火ヲカケ、周章騒グヲ討取ント謀リ、伊賀左衛門佐ヲ大将トシテ、五十騎計馬ノ轡ヲ布ニテ巻、川ヲ伝ヒニ押寄ル。閶ニ紛ヒ、敵兵本陣ニ行クニ行当リ、彼此相騒グヲ、土佐方ノ陣ヨリ撃テ出、暫時ノ間ニ伐敗ラレ、乱レ散テゾ引退ク。夜モ明行程ニ左衛門佐ハ沼田ニ馬ヲ乗リ入レ、流矢負テ息絶々ニテアリケルヲ、其子九郎兵衛ハ父ノ行方ヲタドル程ニ、是ヲ見テ今ハスベナキコトニ成セ玉フ者哉、御首ヲ挙テ帰ラント云ケレバ、武士ノ首敵ニ渡スハ、生前ノ本懐ナリ、汝ハ急ギ立去ベシト、終ニハカナクナリニケリ。其馬モ深手負テ同ク其処ニ斃レケルトゾ。此墓今モ沼田ノ中ニアリ。碑立リ表ニ片岡伊賀墓ト記シ、左右ニ天正年中此処討死、宝暦九年巳卯四月日、片岡善蔵榮重建之トアリ。馬之墓是ヨリ北十歩バカリニアリ。伊賀氏系図二本アリ一本ニハ高通ヲ片岡伊賀守ト作リ、今ハ一本ノ委キ方ニヨレリ。  (那珂郡櫛無村の項)

 

 

 

           俗に「高篠の戦い」と呼ばれるこの名高い合戦は、「西讃府志」に記される4月28日の長尾軍VS長宗我部軍と、「南海治乱記」に記される翌日の羽床軍VS伊予衆軍+大西上野介軍の2段階構成であったことが理解される。まず、28日の戦いは象頭越で仲南方面から侵攻した本篠城の中内藤左衛門勢を主力とする土佐軍が長尾に向かってまっすぐに進んだ時に、長尾勢が密かに土器川を渡って芭蕉と呼ばれる場所に伏兵を隠し置いて奇襲をかけたことで開始された。芭蕉は現在の場正で、有名な小縣家や長田うどんの南方一帯である。江戸時代には場所とも書かれている。この辺りは土器川が作る扇状地の上部で、小河川や井手もクリークのように深掘れで出水も多く木立も至る所にあり、兵を伏せる場所は豊富にあったと考えられる。元親がこの軍を統率していたかどうかは定かではないが、おそらくこれ以前に櫛梨山の本陣に入って羽床進軍に備えていたのであろう。芭蕉では奇襲が功を奏して勝利し、長尾氏家臣の片岡九郎兵衛高好は敵の大将を討ち取るという功名を立てている。さらに櫛梨山に向かって撤退する土佐軍を追撃し、夜に紛れて本陣に火を放とうとしたが、天は彼に味方せず、途中で土佐の一隊に見つかって蹴散らされてしまった。その混乱の中で片岡高好は深手を負い息も絶え絶えの状態で嫡子の左衛門佐高通に発見された。高好はそのまま戦死をしたが、その場所は櫛梨村の大歳神社北方と伝えられ、江戸時代になって子孫の手により供養塔が建立された。長尾氏の戦いもここまでで、そのまま本城に撤退したのである。

           翌29日は櫛梨山の元親本陣が軍勢を整えて、羽床に向かって進軍を開始した。長尾軍と羽床軍は互いに連絡を取り合って双方の伏兵奇襲戦も共通しているし、長宗我部軍も前日の戦いから行路に伏兵がいるかもしれないことはある程度予想はしていたとは思うが、まさか羽床勢が土器川を渡って本陣近くにまで迫っているとは思いも寄らず、まだ敵は遠しと総勢一万二千という余裕の兵数を頼りに伊予衆を先鋒に粛々と進軍していたのである。羽床軍は高篠村の各所に伏兵を設けて敵を突き崩し緒戦である程度の戦果を挙げたものの、その日の暮れ方までには掃討されて羽床に向けて撤退を開始。資載は途中で引き返して玉砕することも考えたが、岡田で老人や子供ばかりの見せかけの化粧軍に守られて本城に帰還したのである。領民が最後まで自分を守ってくれる姿に心から感謝し、「旁々の心趣左ある故にこそ先祖累代今日に至るまで家門の恥辱を受けず、さぞ太祖白鳥大明神より世々の祖神も感応ましまさん。」と家祖の日本武尊まで持ち出して男泣きをしたのである。これも資載の治政宜しきが故の家臣領民の報恩と言うこともできよう。高篠での戦いがどのような規模で行われたのかは、地元で伝えられる記録や口碑もなく今ひとつ不明ではあるが、「全讃史」にも「那珂郡高篠に於て三伏を設け之を待つ。土兵伏に遇ひ大に騒ぐ。伊豆守其の勢に乗じ精兵許多を率ゐ大に之を乱し、東西に之を馳らせ南北に之を逐ひ、少を以て多を破り、晩来意を逞しくして還りぬ。」とあって、治乱記とともに羽床資載の勇猛ぶりを絶賛しているのは、精鋭による寡戦を尊ぶ項羽の戦いもかくの如きかと感銘を受けたためで誠に讃岐武士の亀鑑と言うことができよう。香西成資も、そうした資載の名将ぶりを、作戦過程から和平交渉に至るまで冴える筆致で余すところなく描き尽くしているのは、讃岐戦国史の大きな見せ場のひとつだけにさすがという他はない。

 

 

 

 

 

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