南海治乱記・・・天正八年正月三日、三好民部大輔存保、阿州勝瑞を潜かに夜に紛れ忍び出て讃州十河城に入り玉ふ。其所以を如何にと云ふに、篠原弾正入道紫雲が旧臣、庄野和泉と云ふ者、同姓右近と云ふ者を勧て紫雲が子、篠原右京進を取立て一宮成助と一ツに成り存保を敵にせんと巧むの由、存保に告ぐるものあり。存保謂(おもへ)らく我土州の大敵を防ぎ一宮の逆心を討つこそ大事なるに、懐中に螫を生じては先祖の跡を踏へ国家の存亡を司ることを得べからず。殊に篠原自遁は素より逆意ありて君臣の道を失ふ。自遁成助と土佐方と一ツに成りて存保を敵とせば阿波国の滅亡近日にあり。是に由て引去りぬ。

一宮成助、此事を聞きて即日勝瑞へ番兵を遣はし屋形を守る。篠原が伯父、篠原久兵衛尉は古兵にて君臣の礼を失はず、篠原右京進が不忠を深く戒め、即召連れて讃州へ来り存保に向ひて君臣の礼を尽し、世澆季に及んで世人、君を君とせずと云へども我が氏族何ぞ君に背かんや、希(ねがわく)ば先日の右京進が罪あるが如くなることを赦し永く君臣の道を立玉へと涙を流して言しければ、存保も久兵衛が言す理に服して鬱憤を捨て和用をなし玉ふ。即ち右京進をば讃州に残し置いて率せしめ久兵衛は阿州に帰る。天正七年より長曽我部氏、讃州へ出て西讃岐を侵す故、八年中は十河城に止まり我が方人を救ひ、土州の兵を東に向はしめんとす。長曽我部氏は西讃岐に来り長尾の城を築きて、阿波の大西より取りつづきを能くし兵衆を増して相守り漸々に国を呑んとす。当国軍諍の衝(ちまた)となりて国民悲歎を抱くこと云ふばかりなし。存保より此旨を以て信長に達し早く援兵を下し玉はば国家の安寧を得んと頻りに請はれければ先づ三好笑岩を下し賜ふて、播州羽柴筑前守に命じて淡州へ衆軍を渡し阿波讃岐へ取続け、近き頃に凶徒を退治すべしと下知せらる。然ども、大坂本願寺門跡、西海の水門をさし塞ぎ海上の通路自由ならずして事延引す。信長の兵勢と云へども及び難きに因て、天正八年七月、天子の奏し勅使を立らる。門跡、勅命に応じて信長と和睦し大坂の城を避けて紀州に退く。信長、是に於て海上を開く。  (三好存保、讃州十河城に帰るの記;巻之十一)

 

 

 

三好記・・・・・天正八年正月朔日に、庄野和泉勝瑞に行きて、同名右近に逢ひて語りけるは、篠原紫雲は自遁の仕態にて討たれさせ玉ふと申し乍ら、朝暮主君の敵十河存保公に面を合はせ給ひ候事、偏へに亡君の恨を請け、諸人の嘲身を恥むる処なり。此度一ノ宮成助と一味致され候得かし。当国は成助と右京之進との計ひたるべく候と、義を尽して諫めければ、右近も理に折れて此義に同じなり。されば壁に耳あり、風の物云ふ時代なれば、存保公則時に聞給ひて、成助土佐方と一味なれば、存保公小勢にて大敵を防がん事、如何あらんづらんと思ひ給ひけるにや、同く三日の夜忍び出て讃岐へ立退き給ふ。

          翌日の勝瑞の城へは、一ノ宮より番手の人数を遣はしける。自遁も一ノ宮え合体ありて、木津の山に居られける。篠原久兵衛尉は不例ありて、和談の子細を知らざれば、主君存保公へ右京之進無礼をなすに似たりとて、篠原右京之進を召連れ、久兵衛讃岐の国に至り、存保公に向ひて、膝行頓首し、敢て平視せず。面を低れ涙を流して申されけるは、願くば右京之進が先日の罪を赦され、今日の死を助け給へと、涙を低れて歎き、言を尽して申しければ、存保公遺恨を含み給ふといへども、久兵衛が理に折れて、顔色誠に解けて罪を赦し御座しけり。右京進は讃州に詰めて奉公を成し奉りける。・・ (庄野和泉守同名右近を諫むる事)

 

 

  

          岩倉城で股肱の臣を多く討たれ意気消沈している十河存保の元に、天正元年に滅ぼされた篠原一族が暗殺を企てているという注進がもたらされた。特に、篠原右京進は紫雲の弟である左吉兵衛(康範)の子で父が久米田の戦いで戦死したため、紫雲が我が子同然に養育した若者で幼名を鶴石丸という。紫雲が戦死する時、家臣の庄野和泉守兼時に託して救出され井澤頼俊に預けられた。その後、庄野和泉守の後見で父の夷山城に迎えられていたが、存保を養父の直接の仇として付け狙っていたのである。事はそれだけに終わらず、同族の篠原自遁が一宮成助と組んで存保を亡きものにする陰謀も加わっていたために一刻の猶予も許さず、正月三日の深夜に潜に讃岐の十河城に退去したのであった。この事件は篠原一族の仇討ちだけでなく、存保退去の翌日には一宮勢が勝瑞を占拠している事からも背後に土佐方の大きな計画的な陰謀があった事が窺われるのである。右京進をけしかけて存保を暗殺すれば、単なる復仇として大義名分もつくし信長への弁明もしやすい。存保さえいなくなれば元親にとって阿波全土はすでに併呑したに等しいのであるから兵力も使わずに一挙両得という訳である。いわば右京進を、源実朝を暗殺した公暁のように使おうとしていたのかもしれない。そこは聡明な存保だけに、己の国をほっぽり出してでもさっさと逃げる方に賭けたのである。はからずも長蛇を逸して焦ったのは篠原氏の方で、存保が力を盛り返せば謀反者として殲滅させられるのは必至で、篠原久兵衛尉を立てて右京進の赦免を乞うたのであった。おそらく、此の時に土佐方の陰謀が裏にあったことも白状したに違いなく、だからこそ存保も理に折れて右京進を許したのであろう。まあ、下手な小説まがいの推論に過ぎないが一考の足しにしていただければ幸いである。存保はその後、1年余りも讃岐に留まっている。その間、阿波は守護のいない無法地帯となり盗賊も横行したらしいが、畿内の三好笑岩とも連絡を取りながら、信長の四国進攻に備えて着々と準備に追われていた筈である。「あの笑岩が信長とともに帰ってくる!」その噂だけで、土佐方を怖れ逡巡させるに充分であったのである。

 

 

 

 

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