南海治乱記・・・其比、阿州桑野城主、東條関之兵衛は先達ちて土佐方へ成り同州富岡の城主、新開遠江入道道善は三好方にして忠志を盡す。互に隣里にして相争ふ。新開は元祖関東の姓にして細川氏に従ひ来りて阿波国に住すること世々の記に見へたり。道善度々に及んで兵を揚げ、稲刈麦薙の働きをなし桑野城を疲かさんとす。東條ふせぐに勝へずして元親に達す。元親即ち中内兵庫頭を兵将として加番の兵を遣はす。道善これを知らずして例の如く兵を起し、疆城今市と云ふ所まで押寄する。東條、例の小兵を以て防戦す。已に破れて引く。道善競ひ進んで北(にぐ)るを逐ふ。加番の兵、中内兵庫頭、岡上彦丞、森田善右衛門、宇賀孫右衛門、鎗を入れて込返し二時ばかり戦ふ所に、東條又守り返し横槍に成りて突崩す。其時、土佐方へ首廿六級を得たり。道善敗軍して追討にうたれぬ。是よりして道善も桑野表へ出陣せず。

          其後、海部城主、香曽我部左近太夫親泰方より使者を遣はして言すやうは、土佐元親、近年の内に三好と一合戦して弓矢を落着せんと欲す。其内に足纏ひになる富岡の城を先づ陥すべしと議定すと相聞へぬ。貴老、其内に降して阿州の弓矢の果敢を行玉はば是、士民の安堵也。貴老の賢察此時にあり、能く思慮を廻らざるべしと述べやりしかば、道善も三好家運傾きぬる上は、何程忠功をなしぬるも恢復すべき家に非ず、殊に我が家の滅亡、今日の一言に有と心得て一家門葉の者を集て談合し各同意して親泰が意旨に随ひ元親に降す。一宮、夷山の城主どもも新開が候せし事を聞て降し、此度阿波九郡の内七郡は土佐方に属す。其後、信長四国陣を起さるる時に、新開一宮は三好笑岩に通じて信長方に降せし由聞へければ、信長害に遭ひ玉ひて後、元親又時を得て切ほこりたる時、右二人は害せらる也。  (四国凶年兵乱相続き飢餓に至るの記;巻之十一)

 

 

 

長元物語・・・一.同国の内、南方へ元親公御出馬なされ、牛岐の城を御責落し、城主新海道善、下城仕り、元親公御帰陣なり。

       一.同国南方桑名の城主、東條関之兵衛と云ふ知行高の侍へ、元親公繰状を遣はされ、御味方申さる。則ち御養子の御姫を関之兵衛の妻に遣はさる。祝言相調ひ申す事。

 

 

 

元親記・・・・・右桑野の城主東條関兵衛領分へ、牛岐の城主新階道前入道度々取懸りに及ぶ。稲を刈り、麦を薙ぐ働に依て、元親卿桑野の城中へ中ノ内兵庫を大将にて、加番を差籠められたり。道前この城へ加番を籠けたる事一円知らずして、又いつもの如く取掛り、境目今市口の上迄押寄せる。先づ城主関兵衛手廻迄にて、鉄砲戦に取結ぶ。即ち関兵衛追立てられ、道前競懸る処を、加番の軍兵中ノ内兵庫・岡上彦丞・森田善左衛門・宇賀孫右衛門一番槍して込返し、討ちつ討たれつ二時計戦ひし処に、関兵衛横鎗に入りて撞崩す。兵庫を初め鎗前にて、数人討捕りたり。已に道前敗軍により、追付き卅六人討捕る。その鎗以後、道前并に桑野表へ取出る事之無し。右加番の日数、百日替の筈にてありしを、右註進之あり。則ち番替り仰付らる。廿日ありて罷帰りしなり。(阿州南郡今市鎗之事)

        角てその後親泰の才覚にて、道前方へ繰手を入れらるる様は、三ヶ年の内に、元親卿三好と一合戦して、弓矢を片付けんとの評定あり。その内、足を紛る牛岐の城を取り、三好弓矢の足代にせらるべきと談合極めらるるなり。定めて一両年中に過間敷と存ずるなり。是非その内降参候はば、貴老御一存を以て阿州の弓矢墓行き申すべきは如何、賢察この時に候と入魂せられければ、道前その義に於ては親泰公へ任せ置き候とて、既に降参を致し、人質を出す。扨て又一の宮・蠻山の城も、道前降参致すを聞及び程なく降参す。この度にて前後七郡分手に入りたり。然る所に道前と一の宮城主は、その後心替仕るに付き腹を切らせらるる。扨て牛岐の城は親泰へ預けらるる。一の宮は江村孫左衛門、蠻山は北村間斎預るなり。(阿州牛岐に城主新階道前降参の事并びに一之宮蠻山の城降参之事)

 

 

 

 

          新開遠江守実綱(忠之)の拠る牛岐城(徳島県阿南市街)と、東條関之兵衛実光の守る桑野城(阿南市桑野町)とは数キロほどしか離れていない。新開氏は細川清氏を討った頼之側の重臣で代々富岡を領地とし(、三好政権となってからも実綱は三好実休の姪を娶って勢力を保つ重鎮のひとりである。久米田の戦いで実休を亡くしてからは出家して道善と号した。一方、東條関之兵衛は、元々は甲斐源氏の武田氏庶流で、父の信綱の代に阿波に来て桑野城を与えられたという。所詮は譜代と外様以上の差があってうまくいく筈もなく、さらに関之兵衛が早々と土佐方に下って久武親直の娘が嫁いでからは、三好家に忠義を尽くす道善とは敵味方の関係となった。ここにも家臣同士を分断させようとする元親の謀略が蠢動している。まず、先手を打ったのは新開道善である。天正7年に東條氏領内に乱入して田畑を荒らし甚大な損害を与えた、これを麦薙ぎ・田返しの騒動という。激怒した関之兵衛は土佐方の中内兵庫らの援軍を請うて切所である長生や濁ヶ淵に陣を構えたのである。緒戦で関之兵衛軍を突き崩した道善はそのまま突進して土佐方と正面衝突したが、頃合いを見て関之兵衛が横合いから攻めかけて道善らを敗走させた。相当の激戦で、土佐方の大将格である遠山八郎が、馬から引きずり落とされて松田新兵衛と真淵竜助に討たれるなど道善側の武勇伝も伝わっているが、結局は道善の家臣36名以上が討たれて牛岐城に退いたのであった(「阿波古城物語」鎌谷嘉喜著)。以後、新開氏の挑発も鳴りを潜めたが、やがて香宗我部親泰の「其内に足纏ひになる富岡の城を先づ陥すべしと議定す」という脅しにも似た降伏勧告を受けて元親に下った。続いて一宮成助が降参したように記載があるが、成助は天正5年にはすでに元親方となっているので、道善の降伏を以て、那賀川以南はすべて長宗我部元親に服したのである。

          ここで小生が不思議に思うのは、桑野城の東條氏や脇城の武田氏、或いは讃岐香川郡塩江近くの「甲斐股」と呼ばれる武田一族など、この頃、甲斐武田氏が続々と阿波讃岐に移住しているが、武田滅亡が大きな原因とはいえ、短時間にその土地の領主として勢力を持つなど可能だったのだろうか?「阿波国徴古雑抄」などによると、桑野城城主として「桑野河内守」や、脇城主として「脇権守藤仲房」など別の領主の名前が見られるがこうした領主はどうなってしまったのであろうか?飯盛山城時代の三好長慶が、武田氏や東條氏を義光流清和源氏の同族として優遇したと伝わるが、三好は小笠原流であるから、むしろ本家筋の小笠原長時が信玄に信濃を放逐された事で両者に確執が生じてもおかしくないとも思えるのだが・・。また、当時の領民は、「惣」と呼ばれる結合体で団結力が強く江戸時代のような領主との隷属関係ではないため、馴染みの薄い余所者を容易に受け入れるなどは考えにくく、元々は地頭や在庁官人などで正式に赴任し、応仁前後から土着していったニュー国人衆と捉える方が妥当ではないかとも愚考するのである。

 

 

 

 

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