南海治乱記・・・天正八年五月中旬、土佐国、波川玄蕃允謀反の事露顕して元親より追討せらる。其の所以は先年、波川を幡多郡山路の城に置かれしが、不然仔細ありて改められて波川へ帰住す。是を不快に思ひて暴乱をなさんとす。方々へ廻文して群類を求むれども同意の者もなし。謀反も事成ずして露顕せんことを慮て高野山に入らんとて頭を剃り土州を出奔して阿州海部に到り乗船せんとす。香宗我部親泰に命じて海部にて自殺せしむ。其の次男次郎兵衛、三男五郎太夫は是を知らざる故に赦宥ありと云へども、波川氏族を果さる処に生き残りても眉目なし、波川嫡子彌次郎と一途に成たきの由を申請ひ、鎌田の城に入て氏族家人諸共に大軍を受て戦死す。其時、謀反の廻書に大津の一條殿同意の返答ありし由風聞ありしが、波川陣の其後、廻文の書出て事顕れ元親より中島與市兵衛を使として一條殿に申さるは、今度、波川に同意して元親を亡すべきとは何の故にて候や、先年、幡多にて御父其人に非ずして家老中諸士に謀反せられて御父と共に失ひ奉らんとせしを、元親忠を思ひて是まで迎へ奉り御馳走申す処に波川と与力して元親を亡さんとは何の故にて候や、実に恩を仇にて報ずるなるべし。是より何方へも退き玉ふべし、分国には止まり玉ふべからず、疾く出だせ玉ふべしとて舟を城下に著て攻出しければ力なく乗船し玉ふを、予州法華津へ送り捨て舟は漕返る也。吾よりなす業ながら哀れなりしことども也。御台所と若君姫君は最初より岡豊の城に来りて居玉へば直に留め置かれける。其比は衣更著(きさらぎ)の事なれば松にかかりたる藤を見玉ひて名残を惜み短冊を遣し置玉ふ
住なれし庭の藤なみ心あらば 此春ばかりは色香匂ふな
かくばかり也。誠にその春は花さかざりしと也。 (土州大津一條殿、放流せらるるの記;巻之十一)
元親記・・・・・この波川には幡多山路の城を預けをかれしが、不届の子細ありて召上げられ、又波川へ帰住あう。その不足にて謀反を存じ立つが、方々廻文を廻すといへども、同心を致すものの之無しと云へり。大津の城に御入り候ひし一條殿、連判に入申さるる迄なり。兎角この仕合なれば、謀反も調はず露顕せしむ。波川首(かうべ)を刎り、高野へ入らんとて阿州海部まで越えしを、親泰へ云越され、海部にて腹をきらするなり。波川兄弟三人、次男次郎太夫、三男五郎太夫事は、元親卿の馬廻に有りし故、身上赦免と有る処に、兎角一類の者相果てらるべきの条、只一所に罷り成るべしと申し請て、鎌田の城へ取籠る。波川の嫡子弥次郎、その外家礼(来)の者共、一所に籠居り候つるを、天正八年五月下旬に押寄せ、残らず果されしなり。 (当国波川謀反之事)
この北の川は右の波川の聟なり。これも波川謀反の時、勿論ながら云合歴然の子細あり。波川方より北の川へ、右懇望の状えお遣はす。この状如何して落すたりたる哉らん。波川の陣の時、去る者拾取りて元親卿へ上る。されば紛れ無き所とて、その暮に幡多表の人数、その外久武内蔵助の一手、元親の小姓分桑名太郎左衛門頭にて北の川に押寄せる。北之川の城数、甲の森・三滝・大番・猿ヶ滝とてよき城四つ持ちたり。この城々へ手を分け、一度に取詰める。北の川の居城は大番と云ふ城なり。これをば小姓頭桑名太郎左衛門に、幡多の依岡左京佐加はる。
扨て七、八日ありて、登川(北の川)首を刺し降参を請ふ。則ち本丸を太郎左衛門請取り、登川は二の丸へ下る。依岡左京は自然落口の為とて山下に陣を取りて居る。兎角登川をば果さるる筈なり。太郎左衛門請取り、大番の城より手初して、残る城をば大番よりの合図次第に相果すべきとの戦義なり。爾処に三滝の城より手初して早朝に狼烟をを上る。登川同名石見守これを見付け、本丸へ馳上り、太郎左衛門に向ひて、あれ御覧候へ。三滝の城危敷(はげしく)火の手見えて候。如何様御抜手やあらん、と申し、太郎左衛門を目懸け候所を、太郎左衛門、石見が真向を一刀に切割りたり。斯りける処を、時刻を移さず二の丸より投松明にて本丸の者を焼出す。即ち依岡左京山下より馳続き、太郎左衛門と一所になりて堺際へ付き、外より鉄砲を以て討たしむ。爾処登川、暫時矢を留め給へ、腹を切らんと云ふ。さて矢を留むる処に、最後の酒盛して誓願時の一節うたひ、門を開きて登川長刀を打振りて出で、桑名太郎左衛門・依岡左京に言葉をかけ、元親の御名代の両人を一太刀恨み申さんと、一同に突いて出で、散々に働き、一人も残らず打果てたり。誠に登川最期の働、比類無き仕形なり。その後登川へは定番を遣はさるなり。甲の森の城は、南岡四郎兵衛尉、猿ヶ滝へは二階孫右衛門、今二つの城は毀ち捨てたり。 (予州北の川陣之事)
右波川謀叛の時、御連判なさるる由、風聞之ありと雖も、終に実正極めずして年月過せし処に、波川落去以後、その廻文状出る。元親卿驚給ひて、即ち中嶋与一兵衛を一條殿へ使に立てられたり。何の子細に依て左様に御不覚悟思召し立給ふぞや。某に御不足あるべき義は存じ寄らず候。御家破却の段は元親が業ならず。父不覚悟故、御家老謀叛を企て、既に御父子一所を失ひ奉らんと申せしを、恐乍ら某不便を加へ申し、これまで迎へ取り、数年御馳走申すなり。惣別御幼年の時より、何共御形も見分け難く存じ、憚ながら条数を以て御異見申上げ候つれども、忠言耳に逆らひ、良薬口に苦しと哉覧の古諺に異ならず、一として御承引無く、剰へ今度波川と仰合せられ、某が首を刎ねらるべしとの御巧、誠に言語に絶したる仕合に候。懐中の真虫とはこれなり。只今よりは何方へも御座なさるべし。分国の御堪忍は叶間敷と申され候。兎角の御返事に及び申すまじきと申捨て、与一兵衛は罷帰る。
御台所と二人の若君・姫君は、前かどに岡豊の城へ御座成りしを、直ちに留め置きて御使を立てられたり。誠に枝を連ねし御かたらひ、鴛鴦の衾も破れはて、御独身になり給ふ。御身より犯されし罪なれば、今更悔むに益はなし。哀なりし事ぞかし。既に城下へ船をよせ、急ぎ船に召され候へと攻め出し申す。比はきさらぎ上旬なり。この城の広庭に古木の松あり。この松に藤懸りてあり。一條殿御名残にとて、この藤に短尺を掛けをかれたり。
すみなれし庭の藤なみ心あらば この春ばかりは色香匂ふな
とあそばさるる。その春この藤の花さかず。奇特なる事と申しけり。扨て予州ほけ津と云ふ所へ船にて送り捨てられしなり。 (大津の城に御座有し一條殿を流さるる事)
波川玄蕃允清宗(⇒❡)は波川城(現在の吾川郡いの町)を本拠とし、長宗我部国親の時代からの家臣で国親の娘を娶り、一條氏追放の功により幡多郡の山路城を与えられた。しかし、河野氏から寝返った伊予の大野直之を救援に向かった際、河野援軍の小早川隆景と勝手に和議を結んだため元親の逆鱗に触れ山路城を召し上げられ波川城に蟄居させられた。その事を恨んで謀叛を企んだが失敗し、高野山に登ろうと阿波の海部まで来たところを香宗我部親泰に捕らえられ切腹させられた。一説には親泰に庇護を求めたが、元親に密告する者があってその指示で殺されたともいう。この謀叛に加担したのが、北之川(左衛門大夫)親安と一條内政である。北之川親安は波川玄蕃の娘を妻とし西園寺氏から長宗我部氏に臣従していた(⇒❡)が、波川謀叛の後、加担する旨の廻文が誰かに拾われて露顕し、本拠地の三滝城に籠城するも久武(内蔵助)親直や桑名(太郎左衛門)親光に攻められて滅亡した。一條内政も同じく廻文が見つかりその日の内に大津城を逐われて伊予の法華津に捨てがてにされ、ここに名実ともに土佐一條家は消滅したのである。すべて自業自得であるとすれば話は簡単だが、余りにも元親にとって都合良く運び、最も利を得たのは元親であるから、この謀叛について懐疑的な見方も古くからあるのは当然である。「土佐軍記」は、「土佐一ヶ国に入りたらば幡多郡に今一郡も添へて進上し主君と仰ぎ給はば、一條殿は公家の長袖の御身なれば元親公を親の如く思召すべきに、情なく国を追出して一條殿の御子孫を絶やしたる。その因果にて長宗我部家一代にして果てたるは道理なり。」と痛烈に批判し、「土佐国古城略史」でも「元親ノ内政卿ヲ大津ニ移ス、何ゾ逆待ノ甚シキヤ。自ラ貴賤ノ分ヲ乱リ其ノ傾クヲ推テ以テ之ヲ亡ス。是レ彼レ所謂戻ルニ非ズシテ何ゾ。旧恩ヲ忘レ先ヅ其ノ妻子ヲ奪ヒテ以テ之ヲ逐フ。是レ彼ノ所謂徳ニ報ユルニ怨ヲ以テスル者ニ非ズシテ何ゾ。・・亦焉ンゾ禍ノ回クル無キヲ得ン哉。」と手厳しい。北之川氏の廻文が落ちていて誰かが拾って露顕したというのも正に笑止で、最初からそうなるように“某”が仕懸けたのだろう。織田信長は、この時まで一條氏を土佐の国主と見なしていたから、元親がどんなに弁明しようとも格好の大義名分となって四国討伐を推進したのも道理とも言えよう。自分で仕懸けたとは言え、元親もとんだ地雷を踏んでしまったものである。高知県出身の作家である山本一力氏は最近、波川玄蕃を主人公に『朝の露』という戦国小説を書き下ろされた。波川玄蕃の人望と知力を恐れた元親によって謀叛の汚名の下に謀殺されたとするもので、小説とは言えない歴史の真実がこの中に隠されているように小生は思うのである。