南海治乱記・・・天正九年秋九月、土佐方の兵、一宮より出て轟城を攻んとす。兵将には土州、西寺の堅済、池内肥前守、野中三郎左衛門尉也。城主は三好家、近藤勘右衛門尉正次、其の子孫太郎正行、其外氏名を得たる武士五十余騎、総兵三百余人、楯籠りける。此城は地勢堅固にして多兵と云ども圍みがたき要地也。北は川也。南は山の阻(そは)を切立、屏風の如くなる切岸也。其上、岩石𡸴しく聳えて足立もなき所也。然るを南の山手より取寄て大兵を以て相臨む。勝瑞より後詰として存保自ら二千余兵を以て延明の山より尾伝ひに東の峰に諸勢を打上げ、谷越へに鉄砲を打かくる。漸く日昏ければ、土佐の兵も陣屋を取固め終日の挑合に疲れ伏たる処、城中の兵五十余人をすぐりて手足達者を差出し夜戦をかくる。土佐の兵三千余人、大に驚き騒ぎて取合んとすつ処を、屈強の射手ども、差詰め指詰め射る程に、矢庭に百人ばかり射仆す。五十余人の者を鯨波を上れば、東の嶺より後詰の兵同音に鬨を作り、山河一同に崩るるばかりに鳴り渡れば、攻手の多兵みだれ立て敵を拒ぐ方術もなく、少兵に追立られて嶽より崩れ落て死するものあり、敵に遭ふて死するもあり、死亡凡三百余人と也。攻手敗れて退ければ存保も城兵を加し用心せしめて勝瑞に帰陣す。  (阿州轟城夜戦の記;巻之十一)

 

 

昔阿波物語・・・一、とどろと申す在所あり。北は川、南は山なり。山のはらを掘構して城をこしらへ、近藤勘右衛門と申す者、同名孫二郎、其外同名親類廿人許籠り居り候。一宮より土州の西寺堅斎・池内肥前・野中三郎左衛門、人数七千人にて取巻き候所に、勝瑞より政安公後巻成され度く仰せられ候へ共、人数漸く千人より外なく候て、せんかたもなく候。され共、籠城之衆は(果)て候に付て、みころす事にてあるまじくと思召し、町人・百姓共かりもよほし、弐千人計にて候。里をまはり候へば、人数のすくなき事見え申し候。後巻のありとしり候て、一宮は山へ取りあがり、後まきの人数御らんじ候ところに、正安様は一宮の城指て御越しなされ候て、矢野・延明の山へ取上り、峯つたひにとどろのはらへ御越候時、一宮かたには、ととろ上の山に陣をみとり候。政安公は東より御より成され候内に、谷間を隔て鉄砲いくさなされ候内に、はや日暮れ候。其日はやみにて、如何にもくらき夜にて候ひき。たかいににらみあひて候内に、ととろの城に籠り居り候弐拾人計の衆が、一ノ宮殿御陣取の山へせめあがり候時、くらく候に付て、人数の程はしれず、七千人の土州衆くづれ候。兎角軍は手だてが専一と申し伝へ候。一心をつよく仕り候へば、人数はすくなく候ても、利を得る事多く見え申し候。

 

 

          久武親直の一宮来城によって力を得た成助は、付近の従わない領主達の掃討戦を開始する。同じような小戦は度々あったと思うが、三好譜代の家臣である近藤勘右衛門の楯籠もる轟城の戦いは、夜戦が成功したこともあって三好方の資料に多く記載されている。轟城は名西郡石井町、徳島本線の下浦駅付近に位置し、南の尾根突端(王子神社後方)に作られた詰城と北の飯尾川畔の居城からなっていた。居城部分は全くの平城で三方は堀で囲まれて石橋が架かっていたという。この城は、一宮方にとっては黒田表に出る時に横合いから攻撃されることを恐れて真っ先に取っておく必要があったので、大軍を擁して鮎喰川を遡り気延山に続く童学寺付近の尾根を越えて城に迫った。存保もその動きを察知して勘右衛門を見殺すなとばかりに、町人、百姓まで動員した混成部隊で国府町の矢野・延命(四国14番札所 常楽寺付近)から気延山の尾根伝いに進んで、紀州勢の鉄砲の援護射撃を行ったのだった。この時、篠原自遁も勝興寺城に二千の兵を留めていた筈だが、存保に協力したかどうかは定かではない。まあ、このあたりが余り頼りにならない期待通りの自遁である。この日はおそらく童学寺付近で白兵戦を展開し日暮れまで続いたので双方が疲れて陣所に引き上げたが、勘右衛門は闇夜を利用して夜襲をしかけて一宮方は大混乱に陥り、三百余級の頸が討ち取られたのである。兵の数で絶対に不利な場合は夜戦を行うべし、という兵法の鉄則をそのまま実践して十倍以上の大敵に勝利したのであった。しかし、一矢を報いたのもここまでである。土佐方の西寺賢斎(室戸浮津城主)や池内真武(香宗我部親泰重臣)、野中親孝(長宗我部家若年寄)など錚々たる兵将に率いられた圧倒的な大軍には抗しきれずに遂に落城したと伝えられる。

          現在、童学寺の大師堂(当時は本堂)の柱にはこの時の刀痕が残り、轟城の石橋(幅1m、長さ約5m)が南北に架けられたまま、国道11号線の地下1mに眠っていると「阿波古戦場物語」(鎌谷嘉喜著)には記されている。童学寺本堂は平成29年3月の火災で焼失したが、刀痕の残る大師堂が無事であったのは不幸中の幸いであった。国道の地下に眠る石橋も可能なら再び掘り出して、阿波戦国史を忍ぶ貴重な遺物として永く大切に保存してほしいものである。

 

 

 

 

 

   Home