南海治乱記・・・天正九年、長曽我部宮内大輔元親、来陣して北條郡西庄の城に入る。香西家臣、久利三郎四郎吉茂を兵将として二千余人を以て綾坂の切所を指塞ぐ。奈良太郎左衛門尉勝政二千余人を以て鵜足津の城を出て坂出口に陣す。東西謀を通じ力を合せて相守る。元親、西庄の城の仕置を定め、香川民部少輔に土佐の兵五百余人を加て込置き、西長尾城と力を合せ相持つ。左右の手の如く相救ふべき計謀を下知し、元親阿州大西の邑に帰る。

          同七月、三好民部大夫存保は、信長の命を奉りて讃州香西、安富、寒川、植田、池田、三谷の城主、阿淡の兵士を合して一万人を率して北條に来陣し西の庄の城を圍む。香西が兵将、久利三郎四郎吉茂兵卒二千余人を卒して先陣に進む。七月十三日の夜、月明かなるに及んで東の方の攻口より真部彌介、祐重、溝壁を越て城中に入り大音を揚て名乗り敵を招く。城中の兵、彌介一人とは知ずして大に騒動し、手に持ちたる兵刃足踏む所を覚へず混乱す。城の中軍司、楫取彦兵衛尉友貞と名乗て鎗を亘し相戦ふ。彌介竟に勝て彦兵衛を討取り、垣を越へて我が陣営に帰る。諸人其の意志を知ずして援助をなす者なし。陣中驚きてこれを感ず。翌日、城門を開き兵を出し懸合の戦あり。土佐の兵は山坂に習(なれ)たる小馬(土佐駒と云)に乗る。阿讃の乗馬は大長なれば馬軍には相合はずして悉く駆立られて隊伍煩乱す。土佐衆、常々山に附て廻軍し平陸に出ることを喜ばざるは此の所以也。爰に香川民部少輔が家臣、宮武源三兵衛、良馬に乗て傍輩数騎を従がへ馬の鼻を並へ謂て曰、一騎かけて迯る敵の背を踏しむべし、下立て首とるべからず、早く敵ばなれして引取るを高名とせよとて一散にかけ破り引取て城門に待合せ、一騎も怪我なく城に入る。敵身方これを感ず。阿讃の兵衆、此の戦に勝て旗色を直し、三好存保の勇武を顕し兵威を盛大にして城を圍む。土佐の兵衆、微勢なれば大西の城を通じて後援を待つと云へども来らず。兼て定めたる西長尾の援兵も敵の大兵を聞きて来らず。是に由て土州加番の兵、当時の降を乞て西長尾へ引去る。存保、即ち香川民部少輔を降せしめ城を受取り、香西伊賀守に渡し番兵を納て守らしむ。

          香川民部少輔は数代の居城を明捨て家人従類は、白峯の御領青海浦へ引取らしめ、其身は従兵二十人を具し甲冑をも帯せず、日来自愛の鷹を肚にして出行す。敵も身方も他方に非ず、郷里の朋友なれば涙を流さぬる者はなし。民部は夫より松が浦へ到り、塩飽の廣嶋へ渡る。存保は此戦を以て播州秀吉に通じ、早く信長公進発を乞ふ。  (三好存保、綾北條の城を陥すの記;巻之十一)

 

 

全讃史・・・・・則ち北條の香川民部、小早川三郎左衛門も亦土佐に降ると云ふ。三好存保之を聞き、明年七月、檄を安富、寒河、植田、三谷、香西に伝へ、兵一万人を勒して北條の民部が城を圍めり。民部、援を奈良、長尾に乞ふ。両人三好の大軍には敵す可からざるを聞きて、援を致さず。是を以て民部、城を棄てて塩飽に向つて行きぬ。三好存保、志を北條に得、其の勢に乗じて大軍を催ふし阿の勝瑞に帰りぬ。  (巻之二)

 

 

玉藻集・・・・・其後、我が手勢集め馳参じ(長宗我部)信親の手に属し、西長尾・羽床・北條を引導て、信親に見せにけり。何の城にても少々小戦は有りといへ共、信親も強く攻給はず。城中よりも大軍なれば出合はず。然処に長曽我部衆北條を引て宇足津へ入る時、土佐衆一備残て乱取しければ、西庄の城より宮瀧源五兵衛大将にて、歩行武者五十人計連て出て、必敵をきるな、甲の吹返しに目を付て、敵の後にのれと申聞せ、鬨を揚討て出ければ、乱取敵迎るを、濱邊の地蔵のあたり迄追付、土佐衆を十七八人討捕にけり。源五兵衛も敵の中の頭分と見へたる鎧の清げなるを討捕ける。其者の子孫有て、慶長の末に尋ね来て、源五兵衛子供に逢て語りあひけるに、刀脇指の銘、鎧の絲毛、其者の云㕝少も違はざれば、其父宮瀧源五兵衛が分捕したる脇指をあたへければ、かれも亦永正祐定の二尺一寸有ける無類の出来物を残し置帰る。今に宮瀧が家にあり。然るに信親、我今一城も落さざる㕝は臆意有てなるに、小身者、此の如きの働きは、我を欺くに似たりとて立腹し、攻落すべきと有しかば、香川(信景)諫めて、亦重ねて御出陣の時こそとて、香川の城迄引取、九月末に帰陣なり。  (香川山城守信景の項)

 

 

 

          天正9年3月、三好笑岩が阿波に帰国し、信長の四国征討が現実味を帯びてくると、さすがの長宗我部元親の阿讃侵攻スピードも鈍り初め、おまけに南予の西園寺氏の城攻めに大軍を割いたために天正8年後半から天正9年前半の阿讃は妙な均衡の上に立った平穏さが支配していた。阿波の領主達に対する寝返りの説得は老獪な笑岩に任せ、存保はまず土佐方の讃岐最前線である西庄城奪還に向けて7月に大軍を動かした。軍勢は十河を中心とした植田一族と寒川、安富の将兵、それに先鋒として香西家臣の久利三郎四郎吉茂の精鋭部隊である。一気に綾坂を越え綾川を渡った十河軍は西庄城を包囲し、真部彌介と楫取友貞の一騎打ちや、民部少輔家臣、宮瀧彌三兵衛の敵中一騎駆けなどの小競り合いはあったものの、余り十河存保を刺激しては背後の信長をも刺激することになるので、ここは素直に降参して土佐勢は西長尾に引き下がった。「玉藻集」の逸話はそのあたりの状況を伝えているようで面白い。この記述はその文面からして2月の土佐勢の西庄城攻略時のものとも考えられるが、宮瀧の逸話が重なっているようなので、ここに一緒に記載しておく。信親とあるのは、おそらく香川信景の養子となった親和の誤りと思われるが、宮瀧が一騎打ちをせずに馬上から錣を掴んで後ろから押さえ込み敵を生け捕るのを見て、親和が「俺は父、元親の虎の威を借る狐のように、今まで降参する者に乞われれば寛大に不戦講和で臨んで来たが、あの宮瀧のように小賢しく功名を立てる奴がいるのは我慢ならん、これでは俺は単なる臆病者ではないか!一気に攻めて目に物言わしてくれるわ!」と息巻くのを、義父の信景が「まあまあ、ここは抑えて後日を期しなされ。」と宥める光景が目に浮かぶようである。とにかく、今は信長を刺激せずに明智光秀の交渉にかける自重の時期であるから親和に軽はずみなことはさせるなと、信景も元親から諭されていたのだろう。「南海治乱記」の土佐駒の記述も貴重で、土佐駒は犬のように小さく野戦には適さないのを知りつつ、宮瀧が近畿系の良馬で一騎駆けしてええ、かっこうをするのも親和を大いにムカつかせたのかもしれない。この戦いの後、香川民部少輔は土佐に下ったことを存保に咎められ、城を追い出されて塩飽方面に落ち延びていった。そして二度と生きて西庄に戻ることはなかったのである。秀吉の世になって、仙石秀久の豊後出兵に応じ、塩飽から手勢を率いて出陣し、豊後戸次川の合戦で矢に当たり討死したという。宮瀧彌三兵衛は民部少輔の鎧を持ち帰り、西庄城近傍に塚を立てて埋め菩提を弔ったと「綾北問尋鈔」は伝えている。

 

 

 

         

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